2021年9月7日火曜日

オートノマスな物語生成機について あるいはハツカダイコンに関して

 「あの部屋に誰かいた?」 −スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」

 ふと自分が大学というものに10年所属している、という事実に気づく。

ちょっとした長方形を想像してみて欲しい。その長い方の辺の中心にまず折り目を入れて印をつける。そしてそこを基準にして、紙飛行機を折る時の要領で三角形に畳む。片方の折れ目を元に戻して、斜めに折られて残った折り目の中心に、ちょうどバツ印になるように対角の折り目を作る。そしてその円の中心を基準にして37度、右に4センチ先に鉛筆で印をつける。

 目の前の風景は目まぐるしく変わるが、自分自身というものは変わっていないと思ってしまうのは、そこに確固たる自分がいる、という信仰があるからだろうか。

 それとも人は本質的に変わることができない、と信じているからだろうか。それは些か悲しいことだ。

 少なくともここ20年ほどは人類というものは進歩していて、世の中は幾分にも過ごしやすくなったかと思う。少なくとも痰壷はなくなった。物語というものは嘘なのだと信じられるようになった。信じるべきものは本来何もないのだ、ということも、いくらか理解されてきたのではないか。

 コインを投げると2分の1の確率で裏か表が出る、と信じられる。確かなことだ。

 少なくとも、目の前のコインは垂直に立っている。表でも裏でもないが、コインを90度回してみれば、表か裏に見えるかもしれない。


 1.さまざまなテクストについて −マルティン・ハイデッガー「芸術の根源」

物の物体性、というものが本当にあるのか。甚だ怪しいものだ。と思う。

 円を無限に分割することのできる機械は時計として機能しうるか。というのは考えるに値することだ。多分それは時計という名前になるだろう。少なくとも、デジタル時計ではない。

 空間を二つに分割するものがメトロノームになって、空間を二つに引き裂く音がリズムになる。物しか信じるものがないなら、世界は多分そう見えるはずだ。

 分け隔てることで理解する以外の理解の仕方があるだろうか。

何かを記録することはなにかを破壊することなのだ、というのをある展覧会で示唆された時に、破壊しない記憶の仕方、というものはあるだろうか、と考えたが少なくともパッとは思いつかなかった。(例えば、何か、生き物が増える、というような単純な計数上の変化でもいい、その場合、子を持った親は、子を持つ前と同じだと言えるだろうか? 少なくともその観点は些か、失礼なように思えるし、やはり、以前とは違う何かとして以前の形質を毀損されているように考えられる。それが例えば喜ぶべき変化だったとしても、前の状態は失われているのだ。損失、ないし喪失であることには違いあるまい)(ところで、多分僕が文中にカッコを使ってこういう文章を書くのはかいけつゾロリの影響だ。)

 陶片はそこに印を刻み付けたものたちの死んだ後にも残り続ける。文字というものは全て、死者との交信である。エジソンは晩年霊界との交信を試みたという。今の視点から見れば、滑稽に映るかもしれないが、そこにいない人間の声が残るレコードや、そこにいない人間の声が聞こえる電話機は、そこに幽霊がいることと本質的に同義だ。

モールス信号は、本質的に0/1の通信の規格であるとともに、人間の痕跡、根源的な、触覚の繋がりの装置だ。

気配が全て知覚されうる / 気配以外は存在し得ない

情報は痕跡で、少なくとも、自分に届く頃には過去の情報だ。一生僕たちは現在に接近し得ない。

書けるもので書かれた書くことのできる物語というのが、少なくとも本に書いてあることの全てで、書けないものは書けない、多分本質的に書けないものがある。

書けないなら書かなければいいのだけど、書けないから書いてしまうのだろう。

少なくとも、正解なんてなくて、それは常に、一番“確か”らしい、ということだ。

確からしさのために人は無限に時間を使って、少なくとも、猿よりは早く、ハムレットを書き上げた。猿もそろそろハムレットの一章あたりは書き終えた頃だろう。

人間はランダムの偏らせ機なんだ、と考えた時に、少なくとも猿よりは優秀なんだ、ということがわかる。人間にとっては。

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2020年9月25日金曜日

まだ、十分にインターではなかった時代のインターネットについて −あるいは通信コストの問題で生まれた機械仕掛けの生命らしきものについて

 伺かと言うものがある。

あった、その頃はwindows meを使っていて、jpegを表示するにも数分待っていたような時代だったように思う、記憶違いで、もう家にもADSLが来ていたかもしれない。

mixiはまだなくて、当たり前だけどTwitterなんかもなかった、掲示板カルチャーや、CGIで自分のプロバイダのサーバーにチャットを置く、みたいな時代だったような気がする。

いろんな意味で、インターネットはまだあまりインターではなくて、やたら低い解像度の、今のgifアニメよりも画質の悪いような動画を見たり、人の立ち上げたサイトを眺めたり、ページを開いては読み込みに時間がかかるので、本を読みながらとか、何か別のことをしながらインターネットをしていたような気がする。

掲示板をF5で更新して、誰かからのレスポンスがついてないかを気にする。

少なくとも、Lineみたいなスピード感のやりとりじゃなくて、それはチャットが一般に普及するまでずいぶん待つ必要があった。当時自分は幼かったので、同年代ではない人の言葉を見ることがずいぶん新鮮だったかのように思う。

インターネットは、デュシャンが絵画について、または作品について言及したような「何か別のものへの窓」[デュシャン,1999]ではあったが、その大きさはとても小さくて、少なくとも、人間一人が、鏡の中に入っていった(Through the Looking-Glass)アリスのように窓の向こう側に行くことは不可能だった。

そんな中で、その空き時間を埋めるために「伺か」とか、比較的軽量で、ローカルで楽しめるフリーゲームカルチャーみたいなものが流行っていたんではないか、と思う。

僕は今だにその頃に出会ったフリーゲームの「くもりクエスト」が大好きだが、構造的にこのゲームは「伺か」と似ている。

彼女らはなんら生きていない、ただ選択のパターンであるとか、内部に持っている情報を、ディスプレイの前にいる人間の操作如何で、順次開示していくだけだ。

そこにストーリーテリングがあり、ストーリーテリングがある以上、人間は感情を動かされる。

全てが書かれた分岐式のロードマップとやりとりしている。つまり、パンチカードを機械に差し入れて、計算結果が返ってきた時代のコンピュータ、ないし、計算機と相対しているのと、なんら変わらない。でも、そこには、少なくとも、人間が孤独を埋めるための何かがあった。孤独でない、ということは、一人でない、ということだ。でも、少なくともここには誰もいない。

ノベルゲームもこの構造に似ている。情報が順次開示される、という方法は、少なくとも本を読むという行為よりはインタラクティブだったのかもしれない、本だって、ページをめくる、という行為によって情報が開示される、なんら変わりない構造であるというのに。

少なくとも、生命ではない、それは(もちろん知的でもない)、じゃあなんなのか、ということを考えてみると、なるほど、自分の中に生まれた虚像なのだと気づく、本質的に我々がストーリーテリングを、少なくとも、自分の心の中で受け止めようとするとき、そこにあるのは虚像だ。その像は、少なくとも、その作品の作者につながっている。

意図と構造は不可分なので、物語は必然的に、書いた人を投影することになる。しない、という立場の人もいるだろうが、それはまあ今は置いておく。(そして拾い上げることはしない)

気になるのは、これらのキャラクターが、少なくとも、この時代にインターネットの遅さという絶望的な環境に常に置かれていた我々の、孤独を埋めるために存在したのではないか。ということだ。

代理の人間だったのではないか、ということだ。

そしたらこれは正しく人口の生命を志したものだったんじゃないだろうか。

だったんじゃないだろうか。






2019年4月4日木曜日

失われた過去と未来の長門有希

 何がしかの締め切りに追われている、というか、その締め切りをだいぶブッチぎってしまっている。そういう時ほど、筆が走るもので、俺はというと誰もいないSOS団室で文芸部の部誌に掲載するための文章を書いている訳である。件の終わらない夏休みのこともそうであるが、どうも俺はこう、締め切りギリギリにならないと、いや、語弊があった、締め切りを過ぎないとやる気が出ないタイプであるようである。そしてその時に優先度が低いものほど締め切りがどんなに果てしない先であろうとも、手をつけてしまう。文芸部の部誌は先月出したばかりなので、これはつまり来年の原稿ということになる訳である。来年までSOS団が存続している可能性も、或いは願望実現能力なんてものが存在している世界では、来年まで世界が存在している可能性すらも怪しいもんだが、その可能性が低ければ低いほど、俺はそれに打ち込んでしまうのである。

 古泉は、ハルヒの常識的な思考によって、世界はすんでのところで平静を保っているというのであるが、実際の話、ハルヒが「世界中が全てふわふわのパンケーキでできていればいいのに」みたいなことを願う乙女チックな女子でなくてよかったと思う。実際のところ、長門辺りは「この世の全ての液体がカレーだったらいい」なんてことを考えてそうだし、それを実現する能力もあるものだから、タチが悪い。朝倉なんかはきっとおでんなんだろうな、ところで朝倉がおでんが好き、という設定はどこから来たのだろうか、思い返してみれば俺の思い出せる朝倉の姿は、だいたいおでんを作っている。俺に涼宮の面倒をだとかなんとか言いに来た時も、ガスコンロに寸胴鍋でおでんを作っていたような気がするし、ハルヒが教室でいきなり人目をはばからずに着替え出した時もおでんを作っていたような気がする。思い出すだけでもゾッとするが、放課後の教室で俺を刺殺しようとした時に持っていたのも、確か熱々のちくわぶかはんぺんだった気がする。確か冬にハルヒが消えた時には俺は朝倉にモチ巾着でぶん殴られて意識を失ったのではなかっただろうか。

 なんだかおでんのことを考えていたらおでんが食べたくなってきてしまった。ドアを開けるガラッという音がしたので、そちらを見ると長門が「レトルトカレーしかない」と言ってカレーを差し出してきた。確か部室のドアは引き戸ではなかったはずなので、サザエさんの家のドアのようなガラッという音はしなかったはずであるが、俺の覚え違いだったかもしれない。

 俺が袋からスプーンで直接カレーを食べていると、ふわふわのパンケーキの塊と、古泉がやってきた。古泉が、「おや、今日は何やら執筆されているようですね、昨日僕が負け越したオセロの再戦はお預けですか?」というので、そこまでいうなら今日もコテンパンにのしてやろう、と机の上を片付け始めた。ふわふわのパンケーキが俺たちにお茶を差し出す。いまいちどこが口なのかわからないし、もはやふわふわのパンケーキと化してしまった朝比奈さん声を発することができないので、それがわかったところでどうということはないのだが。俺はふわふわのパンケーキにお礼をいうと、湯飲みに入った熱々のカレーを飲みくだし、卓上にオセロの盤を挟んで古泉と対面した。

「では…」
古泉が初手の白を置く。こうして、また今日もたわいもない放課後の時間が流れてゆく。
もう何年繰り返したかもわからない、この永遠とも思える時間が…。

「失われた過去と未来の長門有希」完

2018年3月7日水曜日

ガラパ星から来た長門

 あの冬の大事件における事の顛末を思い出す度に、俺はなんだか「ドラえもんのび太の大魔境」を思い出してしまうのであるが、それはやはり、未来の自分たちがピンチを救いに来る、というところな訳で、そういえばタイムパラドックスとやらは一体どうなってしまったのだろうか。

 朝比奈さんに尋ねても[禁則事項]で要領を得ないであろうからこの事を長門に尋ねてみると、時間平面理論における解釈においては複数の時間平面に存在する異時間同位は言うなれば全く異なる存在であるために、それぞれの個体が出会ったとしても、それはあくまで構成要素の似ている他人に遭遇したのと同じであり、故にタイムパラドックスは起こらない、という事であった。

 朝比奈さんは昔、時間平面理論をパラパラ漫画を例に説明したが、詰まる所パラパラ漫画において描かれたキャラクターというそれぞれのページに存在する人格は、上位次元の観測者にとっては一貫性を持っているようには見えるが、同一次元、つまり三次元存在にとっては全く一貫性のない存在であり、つまり、1秒、1分後の自分はもはや時間平面理論においては全く同一の自分ではない。或は自分ではない、という事なのだろう。
 という訳で、時間平面理論を採用する以上、同一時間軸の同一時間平面上にいる自分と遭遇しない限り、俗にいうタイムパラドックスの心配はないらしいのである。

 昔うっかり今現在自分が存在している場所にTPDDを使ってタイムトラベルをしてしまった朝比奈さんが爆発四散したところを見たことがあるのだが、あれはどうやら同一時間平面上に重なって存在してしまったために二重に存在してしまった朝比奈さんの質量が核反応に似た反応によって起こした爆発であったらしいので、タイムパラドックスとは違うようである。その際朝比奈さんは何事もなかったかのように帰ってきたのであるが、それもやはり、いち時間平面上の朝比奈さんが爆発四散して消滅してしまったとしても別の時間平面の朝比奈さんがやってくればいい、というだけの話だからであろう。
 何よりも朝比奈さんは未来人であるので、過去で何度消滅しようとも、未来のある時間に存在することは確定しているので、言うなれば無限の資源であると言っても過言ではないだろう。

 パラパラ漫画のページに書き込まれた落書きであるならば、と朝比奈さんは次々と未来の便利道具を用いてなんども世界崩壊の危機を巻き起こしているのであるが、正直未来人が歴史を変えられない、というのは嘘なんじゃないかと思っている。どうやら俺たちの学校が山の上にあるのは朝比奈さんが三年前に使った「気ままに夢見る機」という未来の道具の所為であるらしいし、夏休みの孤島でのバケーションの帰り道に、バミューダ海域で海底人の文明を人工知能を持ったバギーによる特攻で崩壊させたり、雲の上に住んでいた天上人を「雲戻しガス」で皆殺しにしたりと、その行動の破天荒さは止むところがない。しかし、海底人にしても、天上人にしても、もし人類と遭遇したら大発見とともに大騒動になるのは目に見えているし、ひょっとすると朝比奈さんが現代で行なっている恐慌は朝比奈さんの存在する未来にとって必要な規定事項であるのかもしれない。つまり、朝比奈さんは然るべき時の流れ、人類中心の世界を作り上げるように動いているように見えるのである。

 朝比奈さんが現在に来たこと自体が、歴史の転換点であり、ターニングポイントなのだ。これは言うなれば、因果律の収束であり、役割理論における言葉で言うのならば、必然力というものだろう。運命力は異教徒なのであり得ない。

 というわけで、今回も朝比奈さんが「バイバイン」という未来の道具でハルヒの細胞を倍々に増やし、AKIRAの鉄雄みたいな感じにしたり、「進化退化放射線源」という道具で古泉を猿まで退化させたりと好き放題やったのであるが、最終的には長門を「ころばしや」で転ばせようとした際にブチ切れた長門が朝比奈さんにローキックを炸裂させ朝比奈さんは死んだ。しかしいくら殺しても朝比奈さんは別の時間平面から無限に湧いてくるのである。

 ここ数週間ほどは長門が全自動ローキックマシンと化し朝比奈さんを次々と始末していたのである。あるときは、とある時間平面からやって来たメカ朝比奈さんに「なぜ船が浮くのか」という質問を投げかけることによって船が水に浮かぶ原理を知らないメカ朝比奈さんの電子頭脳がショートを起こし大爆発するなどという1幕もあった。
 サイボーグ朝比奈さんがやって来た際には取り外した腕から「スーパーどどん波」を放てるようになった朝比奈さんと長門が大接戦を繰り広げた。

 ところで猿になった古泉はというと、延々とタイプライターを打っている。知能レベルも猿を同じになっているので、でたらめに打鍵したタイプライターから吐き出される紙は、まるで意味をなさないものであったのであるが、試行回数を繰り返すと、どうやら文章のように解釈できる部分が断片的に出てくるものである。
 そして猿の古泉がランダムに打ち出した文字列の中で、判読可能なものをつなぎ合わせたのが、この文章である。
 
「ガラパ星から来た長門」完

2018年2月12日月曜日

長門有希の新しい心

 3歳になって「イヤイヤ期」を卒業した長門は、現在では俗にいう「なんで?どうして?期」に差し掛かり、情報統合思念体によって生み出されたことにより持って生まれた博識を携えた上で古泉を質問責めにし、古泉が開示した情報に不備があれば質疑応答でそこを執拗に追求するということを繰り返していた結果、古泉は胃潰瘍をこじらせて全ての内臓を胃酸で融解させてしまったのであるが、そんな時ハルヒはというと、3ヶ月ほど前に「本当に日本の裏側にブラジルがあるのか確かめるわよ!」と言い出して、今日も校庭のど真ん中をシャベルで掘り続けている。いずれマントルにぶち当たってドロドロに融解することだろう。朝比奈さんはPTSD(だったと思う)と呼ばれるタイムマシン概念を応用して事象の地平面へ到達し、5次元の存在となって、本棚を通じてモールス信号で俺たちと交信を行なっている。俺としてはあの朝比奈さんの愛らしいお姿をもはや見ることが叶わない、という事実に若干打ちのめされたものの、5次元の存在となった朝比奈さんは時間、空間を超えてどこにでも偏在し、また歳をとることもない、という説明を長門から聞いた時には、永遠に美しいマイスイートエンジェルの姿を想像して幾分か気分を紛らわせることができた。


 実質メンバーが3人欠けてしまっているような状況であるので、最近のSOS団の活動はもっぱら長門と二人で図書館に行くことである。長門はここ20年間に発刊された電話帳を何度も何度も読み返し、各年度版における違いを発見しては喜んでいるようであるが、俺としてはもう少し健全な楽しみを見出してもらいたい。しかし俺たちSOS団と出会う前の長門は、3年間自分の部屋で正座をしたままじっと待機していたそうであるので、その頃に比べれば幾分かましになったと思いたい。ちなみに待機状態が終わり立ち上がろうとした長門の足を襲った三年分の足の痺れは1.21ジゴワットに達し、そのエネルギーによって三年前にタイムトラベルをしてしまった長門はそれからさらに3年間正座をし続けたという話である。正座をしても痺れない強靭な足を手に入れるまでにおよそ624年ほどこの工程を繰り返したという。実際過去の長門の家に行った時は、部屋が凄まじい数の長門ですし詰め状態になっており俺と朝比奈さんは部屋に入るにすらずいぶんと苦労した記憶がある。そんなに長門がいっぱいいたら、今世界は長門で溢れて困ったことになっているのではないかとも思うが、長門曰く、「サマータイムマシン・ブルース」理論とやらで問題ないらしいのである。実際に問題なかったので、問題ないのだろう。

 夕暮れまで長門は黙々と本を読んで、俺はというと長門の横に突っ伏して惰眠を貪っていたわけである。季節は冬だが、先日ハルヒが掘り当てた溶岩脈が破裂し、そこかしこに温泉や溶岩が湧いているので、街はいつもの冬よりもずいぶん暖かかった。それはそうと、ハルヒが親指を立てながらマグマの中に沈んでいくのを俺は偶然目撃してしまったのであるが、あいつのことだからそのうちひょっこりマグマ怪人として復活を果たすだろう。長門が図書カードを活用して電話帳を借りようとしているが、電話帳は新聞などと同じく貸し出し不可の資料扱いらしく図書館司書とずいぶん揉めていた。結果は、開始3分サミングからの連続ボディーブローによる昏倒、マウントをとった長門による顔面への乱打中にセコンドの俺と通報で到着した警察によって制止され、判定によってテクニカルノック・アウト勝ちとなった。


 長門がしばらく刑務所で過ごすことになったので、長門のいない部室はなんだかがらんとしてしまった。でも、すぐになれると思う。だから心配するなよ、長門…。


「長門有希の新しい心」完

2018年1月28日日曜日

「普通の長門有希」として存在したくないあなたへ。

 3歳になって「イヤイヤ期」を卒業した長門は、現在では俗にいう「なんで?どうして?期」に差し掛かり、情報統合思念体によって生み出されたことにより持って生まれた博識を携えた上で古泉を質問責めにし、古泉が開示した情報に不備があれば質疑応答でそこを執拗に追求するということを繰り返していた結果、古泉は胃潰瘍をこじらせて全ての内臓を胃酸で融解させてしまったのであるが、そんな時ハルヒはというと、3ヶ月ほど前に「本当に日本の裏側にブラジルがあるのか確かめるわよ!」と言い出して、今日も校庭のど真ん中をシャベルで掘り続けている。いずれマントルにぶち当たってドロドロに融解することだろう。朝比奈さんはPTSD(だったと思う)と呼ばれるタイムマシン概念を応用して事象の地平面へ到達し、5次元の存在となって、本棚を通じてモールス信号で俺たちと交信を行なっている。俺としてはあの朝比奈さんの愛らしいお姿をもはや見ることが叶わない、という事実に若干打ちのめされたものの、5次元の存在となった朝比奈さんは時間、空間を超えてどこにでも偏在し、また歳をとることもない、という説明を長門から聞いた時には、永遠に美しいマイスイートエンジェルの姿を想像して幾分か気分を紛らわせることができた。

 実質メンバーが3人欠けてしまっているような状況であるので、最近のSOS団の活動はもっぱら長門と二人で図書館に行くことである。長門はここ20年間に発刊された電話帳を何度も何度も読み返し、各年度版における違いを発見しては喜んでいるようであるが、俺としてはもう少し健全な楽しみを見出してもらいたい。しかし俺たちSOS団と出会う前の長門は、3年間自分の部屋で正座をしたままじっと待機していたそうであるので、その頃に比べれば幾分かましになったと思いたい。ちなみに待機状態が終わり立ち上がろうとした長門の足を襲った三年分の足の痺れは1.21ジゴワットに達し、そのエネルギーによって三年前にタイムトラベルをしてしまった長門はそれからさらに3年間正座をし続けたという話である。正座をしても痺れない強靭な足を手に入れるまでにおよそ624年ほどこの工程を繰り返したという。実際過去の長門の家に行った時は、部屋が凄まじい数の長門ですし詰め状態になっており、俺と朝比奈さんは部屋に入るにすらずいぶんと苦労した記憶がある。そんなに長門がいっぱいいたら、今世界は長門で溢れて困ったことになっているのではない、とも思うが、長門曰く、「サマータイムマシン・ブルース」理論とやらで問題ないらしいのである。実際に問題なかったので、問題ないのだろう。

 夕暮れまで長門は黙々と本を読んで、俺はというと長門の横に突っ伏して惰眠を貪っていたわけである。季節は冬だが、先日ハルヒが掘り当てた溶岩脈が破裂し、そこかしこに温泉や溶岩が湧いているので、街はいつもの冬よりもずいぶん暖かかった。それはそうと、ハルヒが親指を立てながらマグマの中に沈んでいくのを俺は偶然目撃してしまったのであるが、あいつのことだからそのうちひょっこりマグマ怪人として復活を果たすだろう。長門が図書カードを活用して電話帳を借りようとしているが、電話帳は新聞などと同じく貸し出し不可の資料扱いらしく図書館司書とずいぶん揉めていた。結果は、開始3分サミングからの連続ボディーブローによる昏倒、マウントをとった長門による顔面への乱打中にセコンドの俺と通報で到着した警察によって制止され、判定によってテクニカルノック・アウト勝ちとなった。

 長門がしばらく刑務所で過ごすことになったので、長門のいない部室はなんだかがらんとしてしまった。でも、すぐになれると思う。だから心配するなよ、長門…。

「長門有希の新しい心」完

2018年1月27日土曜日

限りなく長門有希に近いブルー

「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた。私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」 −ユーリイ・ガガーリン

ガリレオ・ガリレイは「地球は青かった」と言ったという。当時の学術界、宗教界は彼の論を否定し、彼は島流しの憂き目に逢うわけであるが、その際に見た海の青さを見て「それでも地球は青かった」と言ったのだという。それからおよそ300年後に、人類初の有人宇宙飛行に成功したユーリイ・ガガーリンは「地球は動いている」と言って当時天動説が主流であった天文学会を大いに震撼させたのだった。
 そして、天才バカボンのエンディングテーマでは「その日は朝から夜だった」と言ったのであるが、これは本筋に全く関わることがないので、この際、脇によけておく。ガリレオ・ガリレイは一説によれば「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた。私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言ったとも云われるが、どちらにせよ、当時の教会がこの言葉に激怒するのは火を見るよりも明らかであろう。

 ハルヒが、このガリレオの逸話を何かの本で読んでガリレオに哀れんだのか、それからというもの地球上にすべてのものは、人間の皮膚に至るまで青色になってしまったのであるが、元々青かった朝倉と、元々宇宙に存在した超知性を持った青色は依然青いままであった。
 しかし、これによって信号機の色はすべて青になり、青は「進め」、青は「気をつけて進め」、青は「止まれ」という非常に難解なものになってしまった。それによって発生した交通事故によって世界中の輸送機能が麻痺し、寒冷地などではすでに100万人以上の死者が出ているという。また、世界中が青一色に染め上げられてしまったせいで、レーザープリンターのトナー切れランプが青色になってしまい、トナー切れにとても気づきにくい、という問題なども発生していた。それによって1000万人以上の死者が出たという。
 古泉が尊い犠牲になったのも、このレーザープリンターのトナー切れによるものであったというのは、後で聞いた話になる。

 鯖の鱗も真っ青になってしまったため、鱗を見て鯖の鮮度を判断することができず、7万人の寿司職人が失職の憂き目に会い、白物家電は青物家電になり、桃色吐息も青色吐息になり、青色吐息は青色吐息になった。ピンク動画はブルーフィルムになり、特に意味合いは変わらなかった。

 「青は藍より出でて藍より青し」ということわざも、今回の騒動によって「青は青より出でて青より青し」ということわざになり、もはやなんの意味もなさない言葉となり、「朱に交われば赤くなる」ということわざに関しては、常々、「朱」と「赤」は、色鉛筆に「しゅいろ」と「あかいろ」が別々にあるのだから、違う色なのでは?と思っていたのであるが、晴れて「青に交われば青くなる」ということわざになり、俺の疑問は解消したわけである。

 かくして世界は青くなり、共産主義の脅威は世界から消え失せた。しかしガリレオを島流しに追いやった宗教を許すわけにはいかない。こうして、俺たちSOS団のメンバーは、地球上に存在する宗教の全てを根絶するために、旅立ったのだった。それが薄汚いアカどもの歩んだ道と同じ道であったとしても、俺たちは、ガリレオ・ガリレイの無念を忘れることはないだろう。
「Поехали!」俺たちは鬨の声をあげ、この世に存在するすべての宗教に、宣戦布告をしたのであった。

「限りなく長門有希に近いブルー」完