2012年12月13日木曜日

男の話4

               

 生きて行く上でコスト管理というのは非常に重要な問題である。例えば本を買うときに考えることがある。この本棚にあるルーブル美術館の目録は1万円もするもので購入するときに大変に悩んだものだ。しかし例えばルーブルに直接行くのであれば渡航費だけで往復10万円前後かかる。ルーブルの入館料は10ユーロと大変お安い訳であるがなかんずく上野の国立科学博物館さえ一日で見て回れないわたしには、かの有名なルーブルを一日で全て見て回るというのも厳しかろうと思うのでまあ見て回るのに二日、パリ絵の到着時刻その他諸々を考えても4日は滞在するとするとそれだけの宿泊費も発生する訳でとてもではないが1万円そこらでルーブルの絵を見るという訳には行くまい。モナリザは想像よりもずっと小さい、ということはよく耳にするが、別に本であればそんなことは心配する必要はない。ペラペラとめくる、イタリア中期の宗教絵画のあたりが私は好きで、この時期に描かれたキリストはなんと言うか不思議な雰囲気を持っている。やせて、瞳はどこかうつろで寂しく、そしてやや中性的なような感覚、それはどちらかというと肌の質感に由来するのではなかろうかと思う。油絵の具で描かれたキリストの皮膚はどこか艶かしく、うつくしい。そんなことを言っても、写真が本物に勝る訳がない、と人々は言うかもしれない。その場所で見るからこその感動があるのだ、という人があるかもしれない。しかしそのわずかな差を体験するために果たして10倍以上の金をだれが出そうか?わたしはかつて中学高校の頃修学旅行と称して京都の伝統的な社寺仏閣を巡ると言う偉業を成し遂げた男であるが、その当時のことなどこれっぽっちも役になど立っていないし、もはやそのとき見たお寺や神社のことなど、ほとんど忘れてしまった。
もしわたしの根本的な人格形成にその経験が生かされたのだ、という人がいたならば、その人に言ってやりたい。では京都に住む人間は今頃悟りをひらき仏になっているであろう、と。もしかしたらそういうことを言う人は、全てに悟りをひらいた仏なのかもしれぬ。ナムアミダブツナムアミダブツ。

               

 太陽は常に東からのぼり、放っておいても西に去って行く。そのときわたしは太陽を背負って運ぶ必要もなければ、台車に乗せて引きずって行く必要もない。太陽というのはできた奴である。奴はわたしに負担をかけることなく、そしてわたしが心配せずとも世界は平常運行して行く。わたしが我が部屋に引きこもり、もはや外界との積極的な交流を断って、約半年が経過していた訳であるが、その間に世界は何か変わったであろうか。
 何も変わっていないのである。否、様々な変化はあったし、わたしの知らぬ間に様々な季節が移ろったであろう、しかし今日も太陽は西からのぼって東に沈むことはなく。世はこともなく平安でありをりはべりいまそがり。
かくて我々は山奥の養鶏場にて一羽の鶏を入手し、一路山道を下った、目指す先は私の家であると言う。なぜ私の家で?理由は簡単であった。
「きみの快気祝いだからだよ」先輩はそういってにんまり笑った。
出雲絵里は無表情であった。

               

Don't care if you do 'cause it's understood
you ain't got no money you just ain't no good.
                Ray Charleshit the road jack

               

「カタン」
とポストに何かが入った音が聞こえた。私の家はなんてことのない六畳と四畳半の二間のアパートである。ポストはドアと一体になっており、風通しのよい、夏はいくらか過ごしやすいが、冬にはやや、いや,ものすごく寒い部屋に投函物がポストの中に落ちる音がきれいに響くのである。
さてはてなんであろうか,と思う。
わたしは今家で寝ている。木目張りの天井がわたしの目の前には広がっている。どれ一つ確認に行くか。と思い布団から出る。
寝起きの頭は全身にうまく指令を出せず、いくらか体の末端まで力が入らず、ふらつく。道中一度入り口の横にあるキッチンの角に腕をぶつけ、大変痛い思いをした。理不尽である。
ようやっとドアの前迄たどり着くとそれは切手も何も貼っていない一通の手紙であった。
「本日午後5時駅前喫茶店西武にて待つ。」
と汚い筆跡で書いてあった。

               

 久々に大学に出た私は、とりあえず頭を抱えて単位の計算をした。思いのほか一、二年次にまじめに単位を取得していたおかげもあって、後期のみの通年でない講義にこれからうまいこと出席して行けば,どうにか留年は免れそうである。ありがとう一、二年次の私よ。しかし大学というところはあまりにも人が多くて、めまいがする。私は家から出る段で一度日光のあまりのまぶしさにめまいを起こし、バスに詰め込まれた人々の圧力でめまいを起こし、大学でははて知り合いに会ったらどんな話をするか,などといらんことをつらつらと考えてしまったが故にめまいをおこした。
 目頭を押さえて大学の図書館でうずくまっていると、後ろから肩を叩くものがいる。はて,と思って顔を上げ振り向くと、そこには先日の鶏解体騒動のとき喜々として小林とともに鶏を解体していた柄沢くんであった。
「やあ、どうもこんにちは」
と彼は笑顔で言った。
はて彼は厳密に言えば後輩に当たる訳であるが、後輩というものにどういう風に接したらいいのかわからぬ。王様のように,慇懃に対応すればいいのであったろうか、どうも年下というのは苦手である。
「ああ、うん」
となんとも釈然としない返事をしてしまった。彼は手に動物の図鑑のような本をもっている。
「それ…」
と私が言うと、彼はああ、と続けてこう言った。
「先日の感触を忘れないうちにいろいろ確かめたり、記録したり、しようと思いましてね。」
と言ってにっこり笑った。小林といい、こういうことに躊躇のない奴らの笑顔は,なぜかまぶしい。なぜだろうか。
私たちは二三たわいもない話をして。またどうせ近いうちに、先輩に呼ばれて顔を合わせるであろう、という話をして別れた。
図書館という空間はあまり会話するのには向かないし、そんなものである。
ただ人は時に意味もない、他愛もない会話をしたがるものだ。こういうときに行われるのはたいてい、事実の確認である。ああいうことがあったよね。ああ、あったあった!という、脳のなかにある記憶の再確認、思い出の答えあわせを求めるのである。そうすれば少なくとも、私の記憶は肯定されたのだ、と自己承認欲求を満たすことができる。承認されたのは自分自身でなく、その過去の環境の記憶であり、その過去そこにいた自分であるが、本人に取っては関係のないことだ。そういえば昔どこかで聞いたが、人間の脳というのは、厳密には未来過去現在を区別できないという。過去の事実を想起させ、脳にまた快感物質を分泌することによって、人はその時の幸せと同じ幸せを獲得するのだという。何となく後ろ向きである。そんなことでいいのか,とも思う。しかし多くの人はこの快楽に溺れることを一つの人生の目標としているし、我々が同窓会などで集まるのは、この思い出す快楽の想起の幅に関して日常生活の範囲では満足できなくなり、より遠く過去を思い出すためにあの頃は何だ、とか、昔はよかった、と言う話をするのである。
「昔はよかった…か」
と思わず私は口に出した。
今がよかったことなど全ての人間にとって、一度たりとてないのではなかろうか。常に,今よりまし、と言う意味合いで、昔はよかった、と発話する。
未来のことなどまるでわからない。

               

「いったい——いったい宇宙はどんなふうに滅びるのですか?」
「われわれが吹きとばしてしまうんだ——空飛ぶ円盤の新しい燃料の実験をしているときに。トラファルマドール星人のテスト・パイロットが始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまうんだ」そういうものだ。
—カート・ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」

               

かつて小林と居酒屋で流し込むようにアルコールを摂取していたときに見知らぬおっさんが話しかけて来たことがある。おっさんはデパートで働いている営業マンらしく、談笑のなかに仕事の愚痴を織り込むのが大変うまかった。そのとき小林と私は漫画の話をしていた。おっさんが話すのは結構昔の漫画か、あるいは俗にいう青年漫画と言うサラリーマン向けの漫画などの話であった。私はさっぱりだったのだが、小林は結構その方面にも詳しいので、さいとうたかおやら名前も知らないような時代もの漫画の話に花を咲かせた。私は当時出雲絵里との関係がうまくいっていなかったのでせっかくの小林とのやけ酒を邪魔され不機嫌であり、黙々と酒を飲んだ。
「漫画ってのはいいよなぁ、そうそう、最近の若い人は漫画を描いたり結構するみたいじゃないか?きみなんか、漫画も詳しいし描いたりするんじゃないかい?有名になったりしてな、ははははは」
おっさんは赤ら顔でそんなことを言う、調子のいいものである。このようなおっさんという生き物は自分のやっている仕事以外の苦労や難しさをまるで理解しないのだ。漫画だって描くのは大変であろうし、ましてやプロとしてやっていくのはとてつもない労力だろう。年配の人間というのは想像力に欠けているのではないか、と常々思う。
「そうだ、君たち二人でコンビを組んでやったらいいんじゃないか、藤子ええとなんだっけ、あの、二人組みたいに、そう、無口な君が原作をやってさ!ははははは、案外人気が出るかもしれんよ、コンビ名はこの皿の上のちくわとはんぺんから取ってちくわはんぺんなんてのはどうだ?いいなまえだとおもうなぁ、わたしは!」
と卓上のおでんを箸で示しながら一気にまくしたてると
「お姉さんウィスキーみっつ!」
と店員さんに叫んだ。
「おれのおごり」
とニッと笑った。おごってもらえるのであれば、と小林と私はそれなりに呑んだ。徐々に我々は打ち解けたがそれがおっさんの話術故か、アルコールの過剰摂取で脳の機能を阻害されたのかは、もはやアルコールの過剰摂取で判断できなかった。おっさんは、
「いけね、奥さんに怒られちゃうから、わたし、先に失礼!たっしゃでなあ!」
と言って今迄の分の会計をすませてそそくさと帰っていった。
迷惑だけどありがたいことではあったので我々は払わなくてよくなったここの会計の分でさらにもう一軒別の飲み屋へと行った。
小林はある程度以上呑むと最寄りの人にべたべたと触ってくる癖があるので大変に面倒くさいが、その辺りの挙動が怪しくなるだけで、基本的に奴はどれだけ呑んでも思考は明晰である。逆に私は呑めば呑んだだけ思考を疎かにするので私が発する種々の愚痴や放言に、小林が明晰かつウィットに富んだ返答をすると言うパターンに陥りがちだ。ただ私が酔って同じ愚痴を繰り返すと、奴も奴で前回とまるで違う答えを返すので端から見ると明晰に見えるだけで、本人は相当に酔っぱらっているのかもしれない。
我々は結局、その二軒めの飲み屋でもしこたま呑み、ゲロを吐きながら帰宅し、最寄りの私の家の玄関を開けるや二人で玄関にぶっ倒れた。

               

Well, I guess if you say so
I'd have to pack my things and go. (That's right)
Ray Charleshit the road jack

               

「あ、やっと来た。5時って言ったでしょう、いま何時だと思ってるんですか?5時20分ですよ?」

               

 生物学科の研究棟へぶらりと足を運ぶと、生け垣からジーンズを履いた足が生えている、なんであろうと覗き込むとそこになぜか先輩がいた。先輩は道ばたの生け垣に身を埋め空を見ている。端から見たらとんでもない光景である。
「なにやってるんですか?」
「空を見ているんだ」
そうであろう。
「空を観察しているとだいたいこれからどんな天気になるか、わかるものだよ、夕方に一雨来そうだな。」と先輩は言った。
「ほう、さすが先輩ですね」
と、うやうやしくうなずくと
「まあこれは今朝天気予報を見たんだがね。」
拍子抜けである。
「実は小林君に頼まれごとをしててね。」
と私を笑いながら言った。
あいつは先輩もうまく使うな、見習いたいものだ。などと考えていると少し奥の生物学研究棟の扉を開けて白衣を着た小林がやって来た。
右手にはアタッシュケースをもっている。
「ん、なんだ、めずらしいな、いや、そもそも学校にいるのが珍しいのか」
余計なお世話である。
「おお、ちゃんと計っておいたよ。」
ありがとうございます。と言って小林は先輩から紙切れを受け取った。よく見ると先輩の足下には実験室で使うようなシャーレが8個程並んでいる。そのなかには何やら青色の物体がかたまっている。
小林は手慣れた手つきでシャーレを回収してアタッシュケースの中にしまった。
「しかし、太陽が雲に隠れてた時間とそうでない時間なんか計らせて、何をしようというのだね。おそらく感光とか、薬品硬化とかそういう感じのことだろうが。」
と先輩が言った。
「そこまでわかってれば特には説明することもないですよ。紫外線で硬化する薬品の濃度の検査です。ちょっと次の実験で必要でしてね。」
ふうん。と先輩は言った。
「僕がたまに趣味でやるシルクスクリーンで使う薬品と同じ色だったからね。」
さすがの観察力である。しかし読者諸兄、お気づきであろうか、私のこのコミュニケーション能力の無さ、一対一での会話でならいいが、複数人での会話となると、私は急に会話の表舞台に出ることが億劫になるのである。当人達が楽しそうに話しているのであれば、何も私がそこにしゃしゃり出ることは無かろう。世界は私抜きでも回っているのだし、そこに私が無茶に出て行く必要は無いのだ。なんだか鬱々とした気分になって来る、このままではよくない。どうにもよくない。ちょっとコーヒーを買って来る。とその場を離れようとすると、なんだじゃあ僕も研究室の戻ろうかな、と小林も立ち上がった。
「先輩はどうします?」
と小林は言った。
「わたしはもうしばらく、こうしてようかなぁ。」
そういって先輩はまた生け垣にごろりと寝転がった。
結果的に私は小林と生物学研究棟へ向かい入り口に入ってすぐの自販機でコーヒーを買いコーヒーをちびちび飲みながら、小林と少し談笑した。
コーヒーは少し苦かった。

               

 いいえ。唯一の意味は、それを声に出して読んだときのものです。
                —マルセル・デュシャン ピエール・カバンヌ
                「デュシャンは語る」

               

とても眠い。でも寝てはいけないので、ぼんやりとしたあたまのまま、そこかしこをながめる。ふわふわと眼前に白いもやのようなものが浮かんでいるような気がする。そのもやはじょじょに広がって視界の全てを覆ってしまう。ゆめなのかもしれない。ゆめかうつつか、うつつという言葉は実にいい。うつつと言う言葉をイメージしてこのうつつと言う言葉の現実感の無さに思いを馳せてほしい。なんだうつつって、夢よりも言葉の響きとして現実感が無いだろ。

               

 はて、今朝私の家のポストに投函された手紙をあらためてひらいてみる。
午後5時はもはや刻一刻と迫り今から指定の場所に急いでも間に合わない程である。本心を言えば行きたくない。しかし私はあの文字が誰のものか知っているので、そう無碍に扱う訳にも行かぬ、しかし今更になって、何だというのだ。一体何があるのか。それは私に得な話であろうか?
今から行ってもどうせいないのではないか、ただ罵られるだけではあるまいか。しかしかといって約束を破るのもなんだか気が引ける、しかし帰りたい。
よく考えたら今日はなにか用事があったのではなかろうか、等とうんうん唸りながら街を行く。気がついたら私は約束の喫茶店の方へと歩を進めていた。

               

まったくもって浅はかなおばはんだ。おばはんに死を。呪いつつ歩いていくと、誰かを待っているような格好で銀の策を背にして赤いスカートを着た中年の女が立っていた。権現への道順を尋ねようと近づいていったが駄目やった。女は芝居の稽古でもしているのか、傍らに誰もいないにもかかわらず、「そうなのよね、それでね」とか「うん実はね、それがそうなのよ」と
—町田康 「権現の踊り子」