2013年12月26日木曜日

そしてこの点において、複合体は単純体と符合している。というのは、すべてが充実しているのでどの物質も結びつき合っているし、充実体の中では、どの運動も隔たった物体にも距離に応じて何がしかの、効果を及ぼすからである。そこで、どの物体もそれに接触しているものから影響を受け、そのものに起こるすべてのことをなんらかの仕方で感知するばかりでなく、自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体のことを感じるのである。その結果、このようなつながり合いはどんな遠いところにも及んでいくことになる。

—ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ 「モナドロジー」

2013年9月25日水曜日

2013年9月13日金曜日

アルスエレクトロニカ 2013
なんちゃらかんちゃら


日本からの招致作品
メディア芸術祭特設スペース

IAMASの前田先生が企画した作品。
Between Yesterday And Tomorrow
http://solchord.jp/byt/index.html

初日にデータが壊れてたようで動いてなくて大変そうでした。

ライゾマティクス
http://rhizomatiks.com/
Perfume
パフュームフィギュアにプロジェクションマッピング。
プロジェクションするグラフィックを横にあるPCでドローイング、プログラミングして制作し、会期中にどんどん増やすことができる。

企画展
「Total Recall」

和田永
http://www.steamblue.net/
時折織成 -落下する記録

オープンリールカセットデッキに記録された音がゆっくりと落下していく。
何かをスロー再生したかのようなジリジリとした低音が響き渡る空間で、記録はどんどんと地層のように積み重ねられていく。やがて記録が落下し終わったときテープは一斉に巻き戻され、早送りとなったその音声が「美しく青きドナウ」の一節であったことに気付く。

友人とICCに行ったとき、とにかく友人が、この作品を「怖い」と言っていたのがとても印象に残っている。

畠中さん曰く、今回のテーマがtotal recallであることもさることながら、流れる楽曲が「美しく青きドナウ」であることが今回の招致の一番大きな理由だったとのこと
現在同じものが初台のICCにて展示中。細かい説明についてはICCに見に行くと展示の横の壁に描いてあります。

右から2番目の柱の影にいるのが和田さん。

池内啓人
プラモデルによる空想具現化



実は多摩美で同年卒業の池内君の作品。
パソコンの外装を改造しジオラマにする。2013年ICCオープンスペース、エマージェンシーズでの展示ではPCの他にRaspberry Piを使った小型パソコン、プリンターなど様々な日常のコンピューター機器を軍事色のあるジオラマへと改造し展示していた。展示している作品は外装こそジオラマになっているものの、すべて機能はそのままに使用できる。

ART+COM
http://www.artcom.de/en/home/
Mobility

たくさんの石膏で作られたかのような手が鏡を持っておりそれらをモーター制御か何かしらの方法で動かし、鏡の反射光によって対面の壁に文字を映し出したり、幻想的な光の交差を描き出したりする。

UdK留学時代に所属したラボのProf. Jussi Ängeslevä と Prof.Joachim Sauterの関わっている作品。後のトークイベントで偶然Prof. jussi会えた。IAMAS卒業生の菅野さんが今年からいくレジデンスは、彼の研究室とのことで、菅野さんにも同時に会えました。
奥にいるのがjussi 手前はビール。

タバコファブリック
タバコ工場でのオープニングイベント

Neubauten/FM Einheitのパーカッション

パフォーマンス
Huang Yi & KUKA

ロボットアームとダンサーのパフォーマンス。
ロボットの存在を人が再定義するという意味では三輪先生の兄弟deピザ注文を彷彿させる。

フォルマント兄弟
兄弟deピザ注文


受賞作品
OK im OÖ Kulturquartierにて展示

rAndom International
Rain Room

人がいるところだけ雨が降らない、と言う海を割るモーセみたいな気分になれる作品
今回は映像のみ。

Louis-Philippe Demers
The Blind Robot


盲目のロボットという意味合いらしい。
椅子に座ると二本のロボットアームがゆっくりと身体を触り鑑賞者の存在を確認するかのように身体に手をおく。ロボットとの限定的なコミュニケーション関係を作り出す空間を設定することで、さもロボットに意思があるかのように、或はロボットとコミュニケーションが成立したかのような錯覚に陥る。

受賞作品についてはここを参照に

shu lea cheang
Live Code Live SPAM.



台湾のノイズアーティスト。アルスエレクトロニカセンター横のNight Lineのクラブでのライブ。


こっちの広告は大体網点。しかも点が見えるくらい荒い。

2013年9月11日水曜日

書評 「Body Art/performing the Subject」 Amelia Jones "Introduction"

書評


Body Art/performing the Subject Amelia Jones  Introduction


本書は身体を用いた芸術について、モダンおよびポストモダンの時代を中心とした作家の紹介および筆者の論考を記述した本である。


 前半部分ではその時代の身体芸術と切っても切れない問題としての、ジェンダーおよび女性のヌードというセクシャルな面での身体美の西洋、アメリカでの確立についてを創成期をキャロリー・シュニーマンや草間弥生、その後をヴィト・ア・コンチ、アンディー・ウォーホル、ローリーアンダーソン、さらにはハンナ・ウィルケなどの種々の作家の例を上げ、ひもといていく。


 この本の記述は1938年からはじまる。それは残酷劇というフランスのアントナン・アルトーによる、既存の演劇ジャンルに分類できない身体表現の始まりであった。現状のパフォーミングアーツと言う言葉が、既存の演劇、オペラ、ダンスに分類されないものを取り扱っていると言うことを考えれば、これは現在のパフォーミングアーツと言うジャンルの運動の始まりであると捉えることができるだろう。これをふまえた上で、次章から戦後のアーティストたちを取り上げていく。


 冷戦さなかの保守的な時代、女性の側から性を取り上げ、社会に提示することというのは旧弊的な社会では一種のタブーであっただろう、これらのありのままの「性」、社会の中での女性のあり方問う作品群。シュニーマンの女性器からメッセージの書かれた紙編を取り出していくパフォーマンス「Interior Scroll」(1975年)に始まり、赤裸々な女性そのものを見せつけるパフォーマンスについて言及する。


 次章ではシュニーマンの作品についての話を下敷きとし、草間弥生のハプニングなどの初期のパフォーマンスについて言及する。つまりストロングな女性性から、ファルスとしての男根などを用いた男と女の関係性、つまり性=セックスを取り上げたジェンダー論へとシフトしていく。彼女は確実に社会に消費される女性というイコンを意識して作品を形作っている。つまり社会の中で女性がどのように位置づけられていくのか、ということの葛藤、男性、女性という二分化されたジェンダーのなかでここにきて生きていく個人へとスポットが当てられていくことになる。ここには自分自身として在る女性と男性、あるいは社会から「見られる女性」という存在、立ち位置についての言及がなされる


 この本で次に述べられるのはこのようなアートの時代性に置ける必要性、および、その周辺の作家たち、そしてその後出てきたヴィト・ア・コンチらの異性愛者敵趣向を持つ男性側からジェンダーを再定義するかのような身体芸術の動きに話しはクローズしていく。


 これらの流れで大変面白いのは、これらの作品がすべて承前の作品のアンチテーゼになっているように感じられるところにあると思う。つまり男性社会へのアンチテーゼであるシュニーマン作品群に対し、草間弥生がその行き過ぎた女性主義を男女の関係性という視野まで広げ、それに対するヴィト・ア・コンチによる男性主義のぶり返しのような、男性中心主義への回帰、つまり、強くなった女性への恐怖や警戒を内包する(かのように見える)社会の中での男性の再定義というような傾向を持つパフォーマンスへとつながっていく。


 次章でわずかに触れられているが、これらの流れは、その後アンディ・ウォーホルらの行ったようなホモセクシャル的な傾向を持つパフォーマンスへとつながっていく。世界はメトロセクシャルな方向へと移行していく。さらにはローリーアンダーソンなどの男性的傾向を持つ女性パフォーマーの登場によりジェンダーの問題は撹拌されていきつかみ所のないものへと変容を遂げていく。


 だからこの本の表紙にもなっているハンナ・ウィルケがその後に取り上げられていることには一定のメッセージ性があるように思う。つまり彼女は、ある程度人々がジェンダーという概念から自由になった時代に、改めてジェンダーを再定義した作家だったのだ。彼女の代表作「Intra Venus」(1995年)は癌になった彼女自身の身体を撮影し記録していく。そこにはジェンダーという攻撃的な要素は排除されただ一人の生きる人が映し出されるばかりである。

2013年8月16日金曜日

生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人

2013年8月14日水曜日

デュシャンについて。

ただ私は時に思うのです。誰もがデュシャンビヨンを語りすぎたからであるためにその多角的な解釈ゆえに彼らの仕事は多くの面を見せ、多くの理解によって(あるいは無理解によって)多属性を持ち、すべてのモノの祖になってしまったのではないかと。それはいわば「コンセプチュアルの呪い」とも言えるものでしょう。解体、再構成的な美術的手法は人の、枠組みから物を捉え、カテゴライズすることによって理解する性質によって、そうあらざるを得ない。そうなってしまったものなのではないか、と思うのです。

2013年7月8日月曜日

無題


梱包芸術のルーツ
 そもそも梱包芸術とは主にクリストの作品群をさす言葉であるようだ。
「梱包されたライヒスターク」、「囲まれた島」、など包む、囲うことを目的とし、隠すことによってそのものを際立たせるという演出の手法であるように思う。これは隠すことを目的とした梱包であり、その後のジョンレノンとオノヨーコによるバギズム[1]という思想にもつながっていく。彼らは有名人である自分をバッグに詰めることで大衆の前から隠した。

 箱に梱包する、箱そのものを作品とする、という思想はデュシャンの「トランクの中の箱」やウォーホルの「ブリロボックス」などが有名である。前者は箱を中の詰まったものとして扱い、後者はブリロという本来なら洗剤の詰まっている箱の箱のみを制作することによって期待された内側の密度への裏切りのようなモノを内包している。また、ルーカスサマラスやジョゼフ・コーネルなど、箱をテーマにした作家なども多い。行為芸術家、海容天天という作家が自分自身を鉄格子の中に梱包するというパフォーマンスを公開したが、これは仕舞われることと見られることのせめぎ合いの中にあるパフォーマンスであるように思う。また北京の前衛芸術家・也夫は建物の壁面に透明のカプセルのようなものを取り付け、そこで公開された状態で半年間生活を行わせる、という「人間ミノムシ」という作品を公開した。梱包芸術の集成的な作品はハイレッドセンターとして活動していた時期に赤瀬川原平の制作した「宇宙の缶詰め」がある。これは蟹缶をあけて中身を食べ、外側のシールを内側に貼り直し再びふたを閉じることで、宇宙すべてを梱包した、と言い張る作品であった。

 人を箱に梱包するという発想は文学の世界でも多く見受けられる。これらはかくれんぼという擬似的な死の記憶であるとか、囲われた空間に仕舞うことでの所有の意志を示す、あるいは、押し入れに仕舞われると言った幼少期の記憶の再現であるものが多いように思う。
 作品としては箱の中からの情景を主観で語る安部公房の箱男や少女の四肢を切断して箱の中に仕舞う連続猟奇殺人を描いた京極夏彦の魍魎の匣などがある。

 アクリルケースに仕舞う、という作品は、近年では現代駄美術二等兵によるどーしようもないダジャレのような作品をアクリルケースでショーウィンドウのように梱包することによって、額装した絵のように付加価値を付随ずる、という作品群であった。その中でも「狭い」という作品は大変面白く、本来のものよりも少し首を傾けたミロのヴィーナスのミニチュアが、その頭ぎりぎりの高さのアクリルケースに仕舞われている、という作品である。
ダミアンハーストのNatural Historyは樹脂によって切断された牛や豚などを固めた作品である。

 梱包という発想は芸術作品をホワイトキューブという限られた空間の中で作品を展示していくというスタイルそのものの反芻であるようにも思われる。MOMA以降の白い箱状の空間に作品を展示していく、というスタイルそのものへの反発であるように思われる。箱の中で箱を展示するというマトリョーシカ的構造は、美術館という箱に飾られることによってゴミが一定の価値を持つというダダ派の提示した一つの価値観に依拠する。
 だから現在の芸術に必要な価値はただ“そこにあることの意味”であるように私は考える。

コンセプチュアルアートについて
 19601970年あたりに起こったアイディアアート、概念芸術、とも呼ばれる思想。ルーツはデュシャンのレディメイドにあるのではないか、と思う。グリーンバーグが抽象表現主義をアメリカ芸術がヨーロッパ芸術を乗り越えたと評したがその潮流に対する反発としてネオダダが起こり、デュシャンが再評価されることとなる。コンセプチュアルはネオダダの一環として起こった潮流である。現代美術はよくも悪くも、このコンセプチュアルという思想におかされているように思う。これらはつまり文脈、理解を前提とする考え方で少なくともキャプションなしにわかりやすい芸術というものにはならないように思う。


バギズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AE%E3%82%BA%E3%83%A0

2013年6月3日月曜日

指差し作業員について


この作品は衝動的という意味ですごくVito Acconci的であると言える。彼らは人に汚物をなすり付けることをアート言った、その時代はよかっただろう、芸術はある意味ではお綺麗すぎたし、ガチガチのルールに縛られていたからだ。反芸術というダダイストの信念は説得力があった。


しかし今はどうだろう、我々の前にはダダイストたちが破壊し尽くした荒野が残るばかりである。その穿り返された土砂の山を、今更穿り返して何の意味があるのか?

我々はそこに新しい秩序を築いていかなければならない。いずれ誰かが私たちの築いた秩序を崩す時が来るだろう。しかしそのときは、また新しい地平が切り開かれるはずである。もし時代が人を提起するのであれば、今芸術の世界は、再建のときである。いずれまた崩壊は訪れるだろう。しかし、崩壊の時を恐れてモノを形作ることを否定してはならない。


2013年5月28日火曜日

memo

老人

ペットボトルを利用していない。

何を伝えたいのか。


課題としてしかやってない。

問題を発見しよう。

広告代理店のまね。

発想が決まりきったもの。
自分の問題を考えようとしなかった。

なんで祭りにするのか。
人が集まればいいよね、という問題ではない。
きまりきった価値観でものをみない。

何ができるか。

大垣って言われても結局そういうものしかないんだなぁ。

未来を考えさせる、感じさせるものを考えよ。

歩み寄ることと提示すること。

ありがち
クソ

役所の考えそうなことを少しずらしました。感


ずれた感じの展開。

よけいな要素を増やさない。

「じゃあ日本の林業を俺たちが救える訳?」

どう提案できるか。

なるほど、デザイナーは依頼ありきだから考えがまとまるのか。
つまり突き動かされる情動が、内からか外からかなのかの違い。

文脈の中に入れることによって生きてくる。

根本的に欠落してる部分は補う。
(総体をみよ。)

多すぎるところは削れ、少ないところは足せ。

何で人でなくものを描くのか、タッチポイントを描く。

この授業の迷走(失敗とは言わない)は教員間での意思疎通の失敗にあるようにおもう。
デザイン、プログラム畑とアート、芸術畑では行為の動機付けの仕方が異なるので、そこの意思疎通が混乱したのではないかと思う。
教員も学生も混乱していたのだと思う。

2013年2月5日火曜日

私の話。

脚本
・明転

「でもそれで、一体どうしろって言うんだ。」

・暗転

鉄格子のようにも見える手すりに寄りかかり話をする二人。
「歌を忘れたカナリアは」
なよなよした美男子がふとつぶやく。
「おまえ歌なんか歌ったことあったか?」
中肉中背のややがっしりした体躯の男が返す。
「いやとんとないね」

場面は下へ
歯車を組む男、手にはレンチ

「精が出るね」
上から美男子が声をかける。
「そろそろ山場だ、もうちょいでこいつは動くんだ」
ひげ面の男か威勢良く返す。
「舞台美術みたいに行かないものな」
と中背の男が言う。
「あたぼうよ、こちとら中身も作ってるんだ!この発動機がどれだけ重いかわかるか」

美男子「少なくとも僕よりは重いだろうな…」

中背「俺よりも重いだろ」

ひげ面「そうだなあ、多分俺よりも重いぜ」


美男子「その、でかい歯車がいっぱい、車輪に連動して、戦車みたいに表に出てるのは、いいね」
ひげ面「ギアがかみ合って動くってのはいいからなぁ、機械ってこうでなきゃな」

美男子「出来たら教えてくれよ」

ひげ面「近いうちにテスト運転するんだ、そんときゃ知らせるよ」

美男子「よろしく」

・暗転

机で小説を書く男。
「うん、いいぞ、近年まれに見る傑作、私の才能に世界も嫉妬することだろう!いいぞ!すごくいい!すごく…はて…どこがよいのだろう、読み返してみるとさっぱりわからん、だめだだめだ!こんなもの!えーい!」
男、破り捨てるような動作をする。しかし一寸思いとどまって。

「しかし破り捨てるのも何だから、引き出しにしまっておこう。そろそろ引き出しがいっぱいになりそうだが」

「いかんなぁよく考えたらここ一ヶ月ほど家から出ていないぞ、しかたない、密室で一人で出来ることは小説を書くことぐらいというが、いかんせん経験に基づかない小説は面白くない、ここはひとつ大学にでも出かけるか。」
立ち上がる男、顔をあらい、無精髭をそりだす。

・暗転

2013年1月17日木曜日

『なる』っていうのはアライグマくんのスキなところをスキだって言うのに似てるよ。―いがらしみきお 「ぼのぼの」


 誰もがみんな、何かになりたい、と思う。僕は昔マイケルジャクソンになりたかった。舞台の上でみんなを魅了する大スター。彼に一挙手一投足にみんなが目をみはり、歓声を上げる。

 言い換えれば僕はアイドルになりたかった。人々に見られ、褒められることで自己承認欲求を充足したかった。

 幼少のこんな欲求の不完全燃焼、それが僕の制作の動機になっている。子供の頃は誰もがみんなドラゴンボールの孫悟空に憧れた。でもいつかみんな自分は孫悟空でないことに気付く。

 小学生の頃、私はセーラームーンになりたかった。中学生の頃、私は広末涼子になりたかった。美容室に「広末涼子にしてくれ」といって髪を切りにいった。高校の頃私は椎名林檎になりたかった。「ジャニスイアンを自らと思いこんでた 現実には、本物がいるとわかっていた。」と言う歌詞に感銘を受けた。そして私は、マイケルジャクソンに憧れた。アンディウォーホルに憧れた。ジェンダーという垣根を乗り越えるあの超越的な何かに憧れたのだ。僕はいつでも僕ではない何かに憧れ続けている。

2013年1月2日水曜日

The idea was to be a symbol.
Batman could be anybody.

バットマンはシンボルだ
バットマンには誰でもなれる マスクをつければ
— ダークナイトライジング

john smith


from the Voice (not We are the World)


声とはなにか。認識に必要な記号である。
我々は多くの理解を言語に頼る。原初、人は理解を、知識を世代を超えて伝えるために言語を持ったのか、何しろ私はその時代に友人がいないので定かではない。
音というものは現在存在する情報伝達手段の中で、もっともノイズの多く、情報伝達の効率も良くない。
ラジオはテレビに淘汰された。音というものは非常に伝わりにくい。しかし情報の理解の根源的な部分にかかわるものである。
たとえば小説を読むとき、文章を読むとき、「黙読」とも言うとおり、あなたは頭の中で音を再生、シミュレーションし、理解しているはずだ。
音というのは思考と理解に密接にかかわりあっている。我々の思考速度は口の動きと等速なのだ。




音というものが語られるとき、その性質(たとえば波形、高い音か、低い音か)についてのみが語られることが多いように思う。
我々は幼少のころから音楽に満たされた生活を送ってきた。たとえば昔の漫画などで極端に音痴なキャラクターという描写がままあるがこれはかつては音楽というものを再生する機器がまだ世にあふれておらず生きていく上で音楽に触れる機会が少なかったがゆえに起こる野ではないか、という考察をどこかで読んだことがある。


環境が人を変える。




5次元の存在




other
walking the city
 このプロジェクトは留学中UdKのヨアヒムザウター氏のゼミで「sensing the city」というテーマでデバイスやウェブ媒体を用いて都市情報をアートとして再構成するというクラスの中で行ったものである。
都市をセンシングする、というテーマのこの講義ではCosm(ArduinoやProcessingと連携した計測データ共有サイト)を用いて都市構成そのものを記録するような性質のものから、ベルリンの町をサーモ撮影しグラフィックを制作するようなもの、S-bahnの路線沿いのグラフィティの分布の統計を取りそれを地図上にグラフィカルに構成する作品などさまざまな作品が見られた。


walking the city

町を歩き町を音楽に。

この作品の発想の根源は、演奏というものそのものに対する疑問から生まれた。ノイズ音楽というものは往々にして人と机によって演奏される。
演奏者は机の周りを行ったりきたりし、音を鳴らしたりミキサーを操作したりパソコンをいじったりする。
ただこれらは還元してしまえばサンプリングと目盛り(或いはメモリ)の操作が複雑化したものである。
原理的なことをいえば、この作品はサンプリングを私の周りの音に、目盛りの操作を私の周りの環境に託した作品である。
首元に固定されたカメラで周囲の環境を記録しながら、帽子に取り付けられた10個のマイクで自らの周りの状況、音をセンシングし周囲の音をリアルタイムにノイズに変換する。







音の循環系

サンプリングした音源を鳴らす。
この行為の裏には録音という行為が潜んでいる。
ある人はこの音が面白い、と思ったものを録音し収集していく。