2014年2月27日木曜日


・とおいとこから

着払いで荷物を送ります。
こんなにも遠い
異国の地から
あなたはきっと送り返すでしょうね。


テキストを書いて送ります。
そろいのアクセサリー
2つの♡の
それは少しばかり重いとお考えですか?


日焼けを被った(おおった)私の皮膚に
おーい、平ちゃらでしょ?
抜けかけた茶色と煙の白のコントラストがおきれいですね。
毛布の中で当たるひざ、料金後納で
その揺れる髪とタバコの煙

時間よ止まれと念じてみても
そうは問屋が卸さない。
卸すことなどなかったかしら。


あなたにメールを送ります。
返信が早いと
あなたは辟易するでしょうか
よく振ってからお飲みください。

2014年2月25日火曜日

年次報告書

年次報告書

13115 丸山透

はじめに、



IAMASに入学してからの一年は、大変に実り多きものであり、特に様々な教授、講師たちとの出会いは自分の制作、活動に大きな、よい影響を及ぼした。

本報告では、本年一年間を振り返るととともに、現在の制作、および今後の方針について記述することとする。

大まかな流れとしては

・入学とモチーフワーク

・オーストリア留学に関して

・各種イベントへの出演および論文発表

・中間報告

・今後の指針

としてまとめることにする。


 人生に迷える子羊たる私の剛胆にして奇異な冒険の数々を、読者諸氏には手に汗を握って読んでもらいたい。なぜならば、この文章は紙に印刷された本の形態を取らないので、いくら手に汗を握っても、紙が湿ることがないからである。
(もし紙に印刷して読むのであれば、手に汗は握らずとも結構です。)

・入学とモチーフワーク

 IAMASは岐阜は大垣という私が住んでいた地域から比べると、非常に遠い場所にある。何しろ私は東日本の生まれで、神奈川より西は西日本であると思っていたほどだから、岐阜は西でなく中部だ、と聞いて大変驚いたものである。かつてヨーロッパで作られた世界地図を見た人々はヨーロッパを世界の中心だと思っていたであろう、私もそのときの西洋人たちと同じく、東京を日本の中心と信じて疑わなかった男である。東と書いてあるのにも関わらず、である。
受験のときも一度訪れていたが、入学式のときは私もずいぶんとへんぴな所へ来たものだと思ったものである。
ただ、私の田舎はここよりもずいぶんへんぴな所であるので、そこに比べたら都会である。

 入学式ではウェルカムリンギングを見て、またとんでもないところへ来たものだ、と思った。芸術には二種類あり、それは文脈を踏襲した正当な芸術と、情念の発露として、感性のみを爆発させた、語るにもあたわない芸術もどきである。私は三輪先生に直接またりさまの話を聞くまで、この行事は限りなく後者に近いものであると勘違いしていた。IAMASでの先生方との話で私の芸術観は大きく変化するのであるが、そのことは論文発表の項目で後述することとする。

 少し話を飛ばしてモチーフワークの話をしようと思う。
こと細やかにすべてを記していたら、この一年間を記述するには卒業論文にあたる文章量、25千文字をもってしても足らないからだ、人間には自分に人生を生きる必要があり、人の人生を読むのに、その分量は長過ぎる。

 さて、モチーフワークの話である。
 この機会に、一年生全員の自己紹介プレゼンを聞き、大まかにこの大学に集まる人々がどのような傾向を持つかを知った。
私は5年ほど美術系と呼ばれる大学に通っていたので、この大学の学生の幅の広さは大変面白かった。美術大学から、工学系、社会人をやめての入学など、この幅広さはIAMASの魅力の一つであると思う。教授の専門が多岐にわたっているのも同じだ。

 ここで私はイマイチよくわからないことをやっているよくわからない人、と言う立ち位置を確立したように思う。それが得であったか損であったかは、今をもってしてもわからない。

 モチーフワークでは特に分野の違う人々と、様々なディスカッションを元に物を作る、という今までにない経験をした。今までは自分の作品を自分一人で作る。という経験の方が多かったので、この経験は大変貴重だったし、人と作業することの苦労や、難しさなども実感できた。また、最も大きな収穫は、人によってどういうものをよいものとするか、という考え方は千差万別である、ということであった。ある意味では、美大という環境は閉鎖的であるので、こういうものが良く、こういうものが悪い、というのは何となく共通認識があった。しかし、今までの背景が違う人々があつまると、その各人がよしとするものは大きく違うのである。敵対と関係性の美学[1]、と言う論文の中で芸術という環境は、ある意味、一種の芸術愛好家が作った村社会のようなものだ、というような記述があるが、たしかに、芸術という文化の中でよしとされているものは、例えば社会人を経験した人には理解しがたい、というような傾向があるようにも思えた。芸術とは一種の、非生産的な側面、直結して結果につながらない側面を多くもつからだ。

プログラミングやデバイス制作などの講義は、私にとっては二度目、あるいは三度目の経験になるので、この辺りの講義は、ある程度自分の持つ技術の復習と言えた。ただ、のちのクワクボリョウタ先生の講義では、学部時代の多摩美術大学での同氏の講義とほぼ同じ内容であるにもかかわらず、学部1年の頃には理解できなかった、クワクボ氏のデバイスアートというジャンルへの理解や、アプローチの仕方など、そして、氏がどのようなことを学生に伝えようとしているか、ということが、学部時代には全く理解できなかったのであるが、コンピュータデバイスという、演算の中で生成される、単なる現象に、いかにして意味性、メッセージ性をもたせるか、ということ。つまり、ただの光の点滅やモーターの回転にどのような意味を持たせるか、ということが、氏にとっての芸術であるのだ、ということが理解できたように思う。ただこの話をクワクボ先生にしたら、「いやスミス、それは違うよ」と言われてしまうかもしれない。理解とはときに思い込みでもありうるからだ。
IAMASでの前半の講義は、私の五年間の美大生活で頭でっかちになっていた頭を、ずいぶんと解きほぐしてくれたように思う。


・オーストリア留学について。

 ドイツ留学の経験もあり、海外で作品を発表することを三輪先生に進められていたこともあって、私は迷わずオーストリア、リンツ美術工芸大学への留学へ応募した。紆余曲折ありリンツへ留学することにきまった。
 今回の留学では同級生の宮武と一緒に留学であったが、前回の一人で留学したドイツよりは、ずいぶん気楽だった。向こうでドイツに語学留学中の友人に会ったが、やはり英語やドイツ語だと、深い話や込み入った難しい話ができず、フラストレーションがたまる、ということであった。

 私の作品はパフォーマンスで、言語で説明しなくてもかなりわかりやすい形態のものであり、向こうの学生ともかなり早い段階で作品について理解してもらい、交流を結ぶことができた。

 リンツではまずアルスエレクトロニカを観覧した。様々な作品群を見たが、一番印象深かったのは、私が理解していた、メディア芸術と、ヨーロッパの文脈の中でのメディアアートというものは、源流は同じとしても、かなり違うものである、ということだった。

 日大芸術学部出身で美術史にも詳しい同級生の水野と良く話をしたが、メディアアートとコンテンポラリーアートというのは、新しい芸術という意味では同じくくりに入るかもしれないが、それらが踏襲してきた歴史や背景は大きく違う。水野は芸術についてグリーンバーグ[2]という近代の美術を定義した美術評論家を大きく評価するが、私が学んできたメディアアートというものは、グリーンバーグを経由せずに、ヨーゼフボイス[3]から始まる社会彫刻[4]、ナムジュンパイク[5]のコンピュータアートなどを源流とする、コンピュータの歴史と社会との関係性を重視したものという色合いが濃かった。
 日本でメディア芸術を勉強した身としては、メディアアート、というものが、技術応用芸術、というような、技術の発展とともに油絵の具や筆を置いてそのメディウムをビデオや機械、プロジェクターやコンピュータへと置き換えていったもの、というような意識が強かった。
 近代のメディアアートとして、ダムタイプ[6]LOVERS [7]からメディアアートを知った私は、エキソニモ[8]、三上晴子[9]、山川冬樹[10]など、コンテンポラリー色の強いアーティストの作品郡に触れる機会が多かった。その辺りは、造形大学時代から、多摩美術大学、IAMASまで長い期間講義を聴いていた、キュレーターの四方幸子氏[11]の影響も強いように思う。

 つまり私の理解ではメディア芸術はコンテンポラリーアートの変種であり、カテゴリーとしてはコンテンポラリーアートに内包される一ジャンルであると、この頃は思っていたのである。しかしそれは狭い見識の中での一つの見方にすぎなかったということに後で気づくことになる。

 後にドイツのベルリン芸術大学で、日本のライゾマティクスのようなメディアアートとビジネスの連携というジャンルをライゾマティクスよりも20年近く前に開拓していったArt+com[12]のヨアヒムザウターとユッシアンジェスレヴァのもとで勉強していたこともあり、ヨーロッパのメディアアートというものが、かなり技術とビジネスによったものである。と言う理解を得た。

コンテンポラリーアートとメディアアートはなにが違うか、

 この二つの違いは、すごく大まかに言ってしまえば、コンテンポラリーアートがアートマーケットをもち、作品そのものを媒介する、作品そのものに価値付けする、という形態であるのに対し、メディアアートは技術を開拓し、用途を見いだし、提示し、ビジネス、広告というジャンルにアプローチして、アドバタイズメントに用いられる手法として、という形態で金銭をえて価値付けされていく、という形態の違いに帰結すると、少なくとも現在はそういう傾向をもっていると私は考えている。
 だからこそいま日本のメディアアートで評価される作品はライゾマティクスの作品群のような、実験的なものを数多く提示するという形態や、アートアニメーションの再評価、というような映像メディアとの連携がしやすいものを高く評価しているのではあるまいか。

 アルスエレクトロニカで、特に私が興味を持ったのはHybrid ARTというジャンルであった。ハイブリッドアートとはつまり様々な科学技術や生態学など、多様なアートに限らないジャンルとのハイブリッド(交配種)アートである、こういうジャンルが存在する、ということは、つまりメディアアートというものが、必ずしも技術や実験のみに担保されない、メディアアートそのものの価値をもつ、ということだからだ。
 アルスエレクトロニカでは私の知るメディア芸術の枠にとらわれない数々の作品を見、メディアアートというものがもつ、さらに広い可能性を知ることとなった。

 リンツ美術工芸大学での講義はすべて英語であり、クラス内での共用語も英語であった。この辺りは前回の主要言語がドイツ語であったベルリン芸術大学での留学と違い、クラスメートとの交流や、教員への質問も容易であった。授業内容としてはIAMASのメディア系の授業とほぼ同じであるが、クリスタソムラー教授の、コンピュータの誕生から、様々なメディアアーティストたちを順を追って紹介するメディアアート史や、メディア考古学という名称での、古典的なメディア(レコードや、LED以前、ビデオ以前のメディアなど)への理解など、コンテクスト(文脈)を重視する教育が行われていたのが印象的であった。

 留学中は今年のリンツからの留学生でもあるマーシャの紹介で、トルボヴリェで開催された、Speculum Artium[13]というメディアアートフェスティバルにゲストとして招待され、スロベニアというオーストリアの隣国でのメディアアート事情なども知ることができた、特にそこでクローズアップされていた日本人は石黒浩[14]であり、ジェミノイドというアンドロイド制作についての講演もそこで聞くことができた。氏の作品はアルスエレクトロニカセンターのフューチャーラボでも既に拝見しており、その制作のもつ、一見したときのかわいさやぬくもりと、じっと見つめたときの一種の不気味さは人間とアンドロイド、機械による人の意思の伝達を再認識させるような構造をもつ、大変面白いものであった。

 その後そのイベントをきっかけに、同じくスロヴェニアで開催された
MFRU-KIBLIX2013 WHEN WORLDS COLLIDE
international festival platform art - technology - science[15]
というメディアアートフェスティバルへの出演の依頼を受け、そのイベントではパフォーマンスだけでなく、実験音楽、現代音楽に関するカンファレンスにも話者として参加することになった。
 イベントでは様々な国出身のアーティストたちとの交流により、その中にいる日本人としての自分や、日本人に求められるもの、というようなものを意識せざるを得なかったが、それは逆に、私にとって楽しい経験であったように思う。後このときわかったのは、スペイン人の英語は聞き取りづらい、ということだ。


 このときに新聞社に取材を受け新聞にも載ることになった、紙面に載ったマスクにサングラスの男は、大変不審であり、果たしてこれは私だろうか、などと思ったものだ、友人にも、この写真はおまえである必要がないね、と茶化されたが、これは私のパフォーマンスの一部である、「個性を排して匿名性のもとにパフォーマンスをすることが、逆に人々の注目を引く」という目的にかなった結果であった。



また、トルボヴリェのイベントで知り合ったステファンというアーティストに呼ばれ、スロベニアの首都、リュブリャナの芸術家たちの集まるメテルコヴァという地区の近くのスペースでパフォーマンスを行った。
パフォーマンス以外にも、その近辺のアーティストとの交流があり、メディアを使った様々な技法や、ライブなどの話をし、大きな収穫があった旅行であったと言える。


  

 その後ベルリン留学時代の友人に呼ばれ、ベルリンを訪問した。
留学時代にお世話になった先生方にも再会でき、友人と様々な美術展やイベントを回った。その中でも彫刻家のアニシュカプーア[16]の展覧会を見たことと、ブレーメン大学で講師をしている友人の紹介でクリスタ教授の講義で先ほどちょうど知ることになった、初期のコンピューターアートを牽引したフィルダーナーク[17]に会うことができたのは大きなイベントだった。

 また、オーストリアでは大学の友人の紹介でDokapi Noise and
 jazzというイベントに出演した。そこではオーストラリアやオランダなど、様々な国からやってきた実験的なノイズ音楽やジャズを聞くことができ、それらのアーティストとも話ができたのは大きな収穫だった。

 印象的だったのは、私が「私はシャイで、パフォーマンスの最中になかなか観客を見ることができない」という話をしたら、彼らが「ぼくだって観客を見たら緊張しちゃうし、できれば見たくない、だからキーボードのぼくは後ろ向きに演奏することが多いし、ギターの彼だって、正面からプロジェクターの光があたるから、まぶしくて観客なんかろくに見えないんだ。見たらあがっちゃうからね」という返事が返ってきたことだ。恥ずかしがり、というのは、なにも日本人特有の個性ではないらしいので、私たちはおおいに恥ずかしがりながらライブをした。


  


・各種イベントへの出演、および論文発表

 留学中のイベント出演に関しては、先の項目で書いたので省くとする。

 特に今年度の私の活動として

YCAM Yamaguchi Mini Maker FaireでのDommune出演およびパフォーマンス

・多摩美のサウンドアート2013 -振動と反復-

・情報処理学会 音楽情報科学研究会での論文発表
インターカレッジコンピュータ音楽コンサートでのパフォーマンス

・卒業制作展IAMAS2014でのIAMASONIC設営とパフォーマンス
がある。YCAM Yamaguchi Mini Maker Faireでは、イベント会期中自分の制作したアクリルの箱の中にこもり続け、その間の代謝(汗や呼吸など)によってアクリルの箱の壁面を曇らせるパフォーマンスや、スピーカーを用いないパフォーマンスとして制作した、「大ガラスの向こうから」「"Through The Large Glass, and What Alice Found There"[18]を上演した。
 本作は担当教員の城先生との面談での指導により、電源を用いない音響生成ということで、どのようにしたらホール全体に音を響かせることができるか、など、楽器として側面の強い作品であった。このようなアプローチは今までの制作にはなく、また、今まで私の制作でもはや便利アイテムのごとく繰り返し登場する電球に頼らない制作となったことも、この後の制作に大きな影響を与えた。

 ・多摩美のサウンドアート2013 -振動と反復-

 八王子いちょうホールで行われたこのイベントには多摩美術大学の久保田晃弘教授[19]からお話をいただき、参加することとなった。
 去年一緒にパフォーマンスイベントを行った後輩達と再び同じ舞台で共演することとなり、一年間の間の学部生たちの作品の進化に大変驚かされた。このイベントではヨーロッパでも上演した「Electro Voice[20]という、電球から発せられるノイズを身体をアンテナとして受け、ノイズ音響を生成するパフォーマンスを再演した。数回の上演によって幾度もブラッシュアップされた本作は、この八王子でのパフォーマンスでほぼ完成を見たといってよい。また、その後、多摩美術大学での卒業制作講評と、クワクボ先生の2年生の授業にお邪魔することになり、数年の違いで学部の学生にここまで違いがあるものかと愕然としたものである。ライゾマティクスの真鍋大度氏や、メディア芸術祭など、様々な要因によると思うが、かつてメディア芸術のメの字も知らずに入学してきた私たちの世代に比べると、今の学生はかなり早い段階でメディア芸術というものがどういうものであるか、自分がどういう表現をしたいか、ということを理解しており、発想も柔軟で、久保田先生に講評に参加して発言を求められずいぶんと偉そうなことを言ったように思うが、後輩達の制作から教わることの方が多かった。

 ・情報処理学会 音楽情報科学研究会での論文発表
インターカレッジコンピュータ音楽コンサートでのパフォーマンス

 担当の城先生のすすめで留学中に自分の作品に関する論文を書くこととなった。この期間はちょうどベルリン滞在のタイミングと重なり、てんやわんやな事態となった。という訳で、私はベルリンの滞在先で、外にも出ずに延々と論文を書き続けた。

 今回は私がパフォーマンスをはじめたきっかけでもある、「this is not.[21]という作品についての論文を書くこととなった。「This is not.」というタイトルは、マイケルジャクソンの「This is it.[22]をもじったもので、「それではないもの」という意味合いをもっている。本作は、学部時代の「自分で楽器を製作しパフォーマンスを行う」という課題の中でシャイな自分がいかにパフォーマンスを行うことができるか、ということを追求した作品である。

 「踊りたいけど、踊れない。」[23]という寺山修司の言葉にあるように、踊る、ということはとてもハードルが高い(ように私は感じる)ものだ。人前で踊るにはどうするか、音に合わせて体を動かす、という行為には常に失敗が付随する。この失敗への恐怖がそもそも踊る、という行為に人が挑戦するときの恥ずかしさへとつながっているのではないか。そのような観点から、自分の体の動きから音を生成し、空間を泳ぐような動作に、後から音をつけるプログラムを作ったことで、音から拍子はずれに動いてしまう、という失敗を排除した本作は、本来であれば音に合わせて動くダンスというものを、ダンスそのものから音を生成する、「逆ダンス行為」というものに置き換えて上演するものであった。もちろんこのネーミングは、三輪先生の「逆シミュレーション音楽」というネーミングから影響を受けたものである。

 本論文ではダンスというものがウィリアムフォーサイス[24]らによる即興舞踊のセオリー集である「Improvisation Technologies[25]などによって、部分部分に解体され、土方巽[26]らによる暗黒舞踏[27]などによって拡大解釈され、近年では、ダンスダンスレボリューション[28]などによるゲームによって、ステップにまで分解され、ダンスというものが古典バレエのような、一続きのストーリーをもったものでなく、ストーリー性を排した、部分部分の動きそのものをダンスだ、と定義するようになってきたという歴史をもとに、本作もそのような意味ではダンスであり、また、訓練されていない身体の動きの美しさを表現する一つの手法として、ダンスとしてアプローチしながらも、従来のダンスでは表現できないものを表現している、として、論を展開した。

 また同時開催されたインターカレッジコンピュータ音楽コンサートでは、同作の上演を行った。このときにいただいた感想の中で、特に印象深かったのは、「体の動かし方が美しくて、やっぱりどこかでダンスの訓練とかを受けてたんですか」というものであった。このパフォーマンスは、学部2年のころから幾度が上演していたが、よく考えると初めて上演してからかれこれ4年近くの年月が経っているわけで、どうやら私は、この踊れないダンスを踊る、という逆ダンス行為の訓練を十分に積んでしまったようなのである。しかし、いっこうに一般に言われるようなダンスを踊れるようにはならない。盆踊りすら、踊れない。

 論文発表でもっとも身になったのは、作品を作った後に、言語化、文章化する、ということの重要性に気づけたことである。私自身は、学部時代、これが面白い、と思ったものを作って、完成するとそこへの興味が冷めて、別のものを作り、また完成してはまったく別のものを作り、とただ作るだけで、作品を積み重ねていく、ということをしてこなかった。
 教授に講評をお願いする、ということもあったが、私の方で作品だけで伝わるだろう、と思っていたことが、思ったように伝わらないことがあった場合、私は自分の作品について自分で作ったにもかかわらず説明できないと言うことが多々あった。それはあえて言語化する、ということから逃げていたからでもあり、それは自分が作ったものを自分で理解していなかった、ということでもあるのだ。という訳で今回、自分が制作したものを、名前を並べるのも恐れ多い過去の偉人たちの作品と並べて、関係付けることで、自分の作品がどこに位置し、どういうものを目指していたのか、ということを知ることができた、この経験は今後も積み重ねていきたいと思っている。
 論文を書いた後に三輪先生と面談した際に、言語化してから作品を作ることは難しいが、作品を作った後に、その作品を理解し、また作品を作っていく、という過程が必要だ、それがアーティストの責任だ。というようなお話をいただいた。

 言葉は一種の呪いである。「〜〜だろう」とぼんやり思っていたことを、ふと口に出した瞬間、「〜〜だろう」は「〜〜である。」に変わってしまう。例えば「○○でなければいけない」という言葉は自分の発想や行動を大きく制限するだろう。言葉とつきあう際には、細心の注意を払わなければならない。何しろ私は注意力散漫なので、その辺りはより警戒しつつ、制作と言語化とを両立して作品を作っていきたい。


・中間報告

 中間報告では「関係性の可能性」という作品を提出した。これは過去に制作した、女性に微弱電流を流しノイズ音響を生成する「Man/Woman Interface」「彼と彼女の間に流れる電流の相互関係に見る彼と彼女の関係性について」[29]という作品の発展系である。人間の関係性を心音に託し、電気信号として相手に伝える、というパフォーマンスだ。本作ではパフォーマンス、という形態意外での作品のアウトプットへの模索でもあり、体験型、という形式を取ることとなった。また、実際に実施してみて感じたこと、また、指摘があったことに、ハグやキスが挨拶として存在するヨーロッパに比べて、日本人は人に触られる、ということの敷居が高い。ということがあった。例えば日本人は握手をするが、手のひらを触るのがいいが、出会っていきなり手の甲を触る、というのはなんだか変な感じがする。手のひらとはある意味で、日本人の体の中で触られることをよしとする外交の出先機関、鎖国中の出島のようなものではないだろうか、という見識を持った。
 本作では講評で指摘があったように、山川冬樹氏のパフォーマンス作品を強く意識したものとなっている。学部時代に実際に教わり、競演までした氏からの影響は私にとって計り知れないものとなっており、本作はあえて、心音と電球という、氏の表現に寄り添ったものとなっている。
 あえて同じ媒体を使い、違う表現が可能か、という実験でもあった。
本作は私の中では、山川冬樹氏の表現とは違う方向性の「人と人との関係性」というものを表現することができた、と感じているが、どうやら端から見たらやはり同じに見えるようで、教授や上級生などにずいぶんその指摘を受けた。

 実際に体験し、説明を聞いた同級生の水野や上級生の山田さんの「たしかに、そういう意味では、山川冬樹とは違うアプローチになっている。」という意味合いの言葉だけを心のよりどころとして、今後は生きていこうと思う所存である。

  




・今後の指針

 中間報告から少し間が空いたのでその間に卒業制作展であるIAMAS2014が開催された。その中での、IAMASONIC設営とパフォーマンスについての記述から、今後の指針についての話をして、ずいぶんと長くなってしまった文章をまとめようと思う、現段階で、もうそろそろ一万文字である。
 さて、IAMASONICでのパフォーマンスでは同級生の大石さんとの共同制作を行った。ヴィジュアル面のプログラミングと、パフォーマンスを私が、音響部分を大石さんが担当した。
 上演作品「ゴーストダンス -ghost dance-」はmacbookのカメラを用い、パソコンの前に座る自分を撮影しながら、動いた部分だけを検出し明るく表示する動体検出プログラムを作り、手の動きやカメラの動きによって、モノクロの画面を明滅させるパフォーマンスである。このパフォーマンスでは、タイトルでも言及しているように、パフォーマンスそのものを幽霊のようなもの、として表現したかった。壇上で演者がパフォーマンスをするが、その演者ではなくプロジェクターから投影される映像を見なければならない。そして、その見ていた映像が、パフォーマンスが終わり、ただのプロジェクターから投影された白い画面と化すことで、今まで見ていたものが幽霊のように消え去ること、あると信じていた映像が、実はただの物質としては存在しない光と陰の遊びにすぎなかったこと、我々が普段生活する中に存在する、動画という情報は、一種の虚像なのではないか、という問題提起をするための作品である。と自信満々に言っても私はそう思っているだけで、見た人がそう感じられたかは定かではない、これも後付けの文章化なのだ。 

 また、今回の設営でわかったことは、私は人の行動を支配したがりすぎる、ということで、この辺りは城先生に指摘されはっとしたのだが、何も私が全体の指示出しをして、その全部の責任を持たねば、と思い、あくせく動き回って、終わった後に愚痴を言う、でもよく考えたら、誰が私に責任を持ってまとめ役をやってくれ、などと頼んだのか、いや、誰にも頼まれていないのに、なぜ私はまとめ役を買って出たのか。必要なのはもっと早い段階で役割を分担し、任せる、ということだろう。私がいなくても地球は回り続けるし、iPhoneは売れ続けるだろうし、人々は一日24時間分×十何チャンネル分の映像を消費し続けるだろう。もう少し気を楽にもってことに取りかかるようにしようと心に決めたのであった。

 さて、脇道にそれたように思われるかもしれないが、これも必要な布石である。そうでなければ私の人生は今のところ8割程度が脇道にそれ続けていることになる。実際そうかもしれない。

 IAMASONICでの共同制作で学んだことは、少人数の共同制作は、視野狭窄に陥りにくいし、仕事を分担することによって、おのおのの部分に注力することができ総合的なクオリティが上がる、ということだ。
 小林茂先生の言うようなデジタルファブリケーションにおける知識、アイディアの共有や、三輪先生のフォルマント兄弟。あと有名なところではフルクサス[30]、など。現状で感じている行き詰まりは、論文発表で経験した文章化とIAMASONICで経験した共同作業をうまく組み合わせ、情報共有しながら制作していくことによって、打破できるのではないかと思っている。
一寸先は闇というが三寸先も闇である。しかし五寸かそこら先の方に、そのような光明が見えた次第である。

(ここからですます調)
また、通年で担当の城先生とreckとミーティングをしながら、英語の本を読むなどしていたのですが、本年中に英語で論文を書いてみたいと思っております。小林昌廣先生から紹介のあった、フェルトシュテルケ・インターナショナル[31]という、短期間ドイツ、フランス、京都に滞在して作品制作をする、というプロジェクトの一次審査を通りましたので、二次も通ることができれば、また海外での活動の足がかりを得ることができ、今後は日本だけでなく海外も視野に活動していきたいと考えています。

 形式自由ということで大変自由に書いてしまいましたが、この辺りで中間発表報告書をまとめさせていただきます。

2014225日締め切り5分前 johnsmith (13115 丸山透)


 


 

以降注釈

[1]敵対と関係性の美学
関係性の美学と言うニコラブリオーが1990年代以降の芸術を定義したことで有名な論文へのクレアビショップの反証、反論にあたる論文。あんたの言う芸術の素晴らしさっていうのは、ちょっとばかりあんたの感性と、あんたら評論家の居心地のよさに寄り添い過ぎじゃない?というような内容であると私はざっくり解釈しているが、その解釈が正しいかは定かではない。水野あたりにはざっくりし過ぎだ、と怒られそうだ。


[2]クレメントグリーンバーグ
現代美術評論における金字塔であり、ジャクソンポロックやハンスホフマンらを理論的に支持し、アメリカの進歩的芸術の発展に寄与した。
また彼は、芸術がアヴァンギャルド(前衛)とキッチュ(俗悪なもの)に分化している状況を指摘しており、私が前述した芸術と芸術もどきというような考えは60年近く前から常々憂われている問題であるようである。

[3]ヨーゼフボイス
特に日本ではメディアアート初期の立役者として扱われることが多い。
彼のコンセプチュアルな作品や晩年の教育活動は、後のアーティストに大きな影響を与えた。
コヨーテとフェルトが大好きなおじさん。

[4]社会彫刻
作品が社会に与えた影響そこまでを含めた概念を作品と言い張る、という壮大な試み。これらの運動により芸術活動はより社会性、メッセージ性の強いものへと変化していった。

[5]ナムジュンパイク
 大量のテレビやコンピュータを使ったアート作品を発表した。
後にメディアアートにつながる(あるいは内包される)テクノロジーアート、コンピュータアートの初期の立役者。
 彼のせいで美術大学ではテレビを複数使うと「なんだかナムジュンパイクっぽいね」という講評を受けることになる。もちろん非難の意味が含まれている。

[6]ダムタイプ
80年代から2000年初頭まで活動した古橋悌二らによるアーティスト、パフォーマーグループ。共同制作などをつねにした。私がメディアアートを知った頃には解散しており、残念な限りである。

[7]LOVERS
ダムタイプの古橋悌二による作品。複数の回転するプロジェクターを用い裸の男と女が歩いたり抱き合おうとする姿が展示スペースの壁面に投影される。私はこの作品を四方先生の紹介で、実際に美術館で見たのだが、その表現の力強さに圧倒された。いまでも、プロシェクターを使って映像投影する作品で、あそこまでの生々しさを表現した作品には出会ったことはない。

[8]エキソニモ
アーティストグループ。Webやコンピュータを媒体とした、社会的メッセージ色の強い作品を発表する。
Webサイトが非常に見づらい。


[9]三上晴子
日本を代表する女性メディアアーティスト、多摩美術大学教授で、私はこの先生の研究室に所属した。近年でも「欲望のコード」でアルスエレクトロニカフューチャードアーティストに選出されるなど、精力的に活動している。

[10]山川冬樹
トゥバに伝わる歌唱法ホーメイと心臓に連動して明滅する電球を用いたパフォーマンスで有名な全身芸術家。私がパフォーマンスをはじめたきっかけでもあり、おおいに影響を受けている。最近では電球を使わなくても「山川さんのお弟子さんとかなんですか?」と言われるようになってきた。実際に多摩美術大学在学中に様々な指導を受けている。


[11]四方幸子
東京造形大学特任教授、多摩美術大学客員教授、IAMAS 非常勤講師。
三つも大学に行ってる私も私だが、私が所属した大学すべてで教鞭をとっている。ICCのキュレーターをNTTメディアラボ時代から歴任し、日本のメディアアートというジャンルの確立に大きな貢献がある。

[12]ART+com
80年代からライゾマティクスのような、技術とアドバタイズメントの連携を模索しているドイツの企業。BMWと提携して制作した、複数の銀色の球体が車の形を形作っていく広告映像などが記憶に新しい。


[13] Speculum Artium
スロべニアでは現在メディアアートを国として支援する施策が行われているらしく、様々なフェスティバルが様々な都市で行われている。本イベントはトルボヴリェというかつての鉱山都市で行われ、町の雰囲気も相まって大変面白いものとなっていた。


[14]石黒浩
ジェミノイドというアンドロイドを制作する大阪大学の教授。講演はよく自分自身のアンドロイドと並んで行われる。アルスエレクトロニカなどヨーロッパのメディアアート界隈で非常に評価が高い。近年制作した、落語家の米朝をアンドロイド化した米朝アンドロイドのクオリティは相当のものである。しかし、日本ではメディアでの取り上げられ方があれで、ちょっとしたおもしろおじさんみたいなポジションにいるような気がする。

[15] MFRU-KIBLIX2013 WHEN WORLDS COLLIDE
international festival platform art - technology – science
スロべニア、マリボルで行われたメディアアートフェスティバル。
リンツ美術工芸大学で講師をしていたティアゴマルティンなど、様々な友人ができた。大変よいイベントであったと思う。ただ、私のパフォーマンスの音響がでかすぎて、振動で展示用のガラス棚を一個ぶちこわしてしまったのは申し訳なかった。


[16]アニシュカプーア
インド出身のアーティスト。ワックスを使った彫刻や、鏡を使った構築物など、様々な、不思議な空間を作り出す彫刻家。かなり大規模な展示であった。逃げのない力強い表現を見て、やっぱアーティストはこうでなくちゃな、と思った。

[17]フィルダーナーク
製図機械に絵を書かせる作品などを制作したドイツのアーティスト。
人間では描写できないような精密な長い曲線で描かれたグラフィック作品などは圧巻である。私も学部時代に製図機械に漫画を描かせたりしており、大変興味深い話が聞けた。

[18] 「大ガラスの向こうから」「"Through The Large Glass, and What Alice Found There"
本年制作したパフォーマンス作品。アクリルの箱の中という舞台上のさらに区切られた空間の中で、外界へとアプローチしようとする作品である。夏場に行ったので、箱の中は大変暑かった。


[19] 久保田晃弘
多摩美術大学メディア芸術コース教授。学部時代は氏の研究室に所属した。最近は宇宙芸術というものに傾倒しており、氏の話す話は夢にあふれていて大変に楽しい。音響系をやっていた学生が少ないこともあって、たまに私にそういう関係のことで声がかかる事がある。

[20]Electro Voice
電球を用いて行うパフォーマンス。私が山川冬樹に似ている、と言われる最たる原因。ヨーロッパ上演以外にも様々な場所で上演している。


[21]This is not.
逆ダンス行為を生成するダンスパフォーマンス。本編でほとんど述べたのでここでは説明しない、そろそろ時間もない。


[22]This is it.
マイケルジャクソンの死によって中止になったツアーThis is it.の制作途中の記録映像などから構成される映像作品。マイケルジャクソンの死は、ちょうどthis is not.の制作の前年にあたる。

[23]踊りたいけど、踊れない。
寺山修司の詩にある言葉。踊りたいけど踊れない、好きと伝えたいのに、嫌いと言ってしまう、少女の話。

[24]ウィリアムフォーサイス
前衛バレエ、即興舞踊の歴史において欠かすことのできない人物。
In the Middle, Somewhat Elevatedなど、これまでのダンスのストーリー性を排し、技術の連結としてダンスを見なした点が大変に新しい、と私は思っている。

[25] Improvisation Technologies
フォーサイスの制作した、即興舞踊のためのセオリーを動画とグラフィックとを混成した映像で記録したダンサーのための教則動画のようなもの。


[26]土方巽
暗黒舞踏の創始者、その不気味な踊りは三島由紀夫を魅了し、澁澤龍彦をして混沌を意味する暗黒を冠する暗黒舞踏と名付けさせた。
公演に向けて幾日も断食をする姿など、そのパフォーマンスに対する姿勢にはどこか狂気ともとれる部分がある。動画で見ると、女物の服を着て床に転がり痙攣する変なオッサンであるが、一種の審美眼をフル活動させてみたとき、その動きは大変美しい。

[27]暗黒舞踏
土方巽の行う、ドイツのノイエタンツを源流にもつ前衛舞踊。
フランスなどではBUTOUとして非常に高い評価を得ている。

[28]ダンスダンスレボリューション
画面上に現れる矢印にあわせて、足下にあるパネルを踏む、という、ダンスのステップを強制的に取らされるゲーム。一時期は熱狂的な人気があり、ジャンレノ、広末涼子の出演するフランス映画WASABIなどに、日本文化を象徴するものとして登場したりした。熟練し、難しい曲が踊れるようになればなるほど、その姿は何となく気持ち悪くなる。という変なゲームでもある。

[29] Man/Woman Interface」「彼と彼女の間に流れる電流の相互関係に見る彼と彼女の関係性について」

男性の側から女性に微弱電流を流しノイズ音響を生成する作品、名古屋のspazio ritaで上演した。


[30]フルクサス
ジョージ・マチューナスが主唱した60年代の前衛芸術運動。
流動的かつ曖昧なグループ構成を取り、様々なアーティストを巻き込んで制作をした。

[31] フェルトシュテルケ・インターナショナル
時間がないので急いで記述している。フランス、ドイツ、京都を基点に各国のアーティストの交流と制作を目的としたプロジェクト。
詳細はweb参照のこと