2015年1月28日水曜日

芸術に関する覚え書き。

芸術に関する覚え書き。

・芸術は可能か?
 芸術作品というものは古くから創作され、また文化的、教養的価値を示す明確なものとして、社会的に保護され、また教養として伝えるために様々な国が美術館や博物館という形式で収蔵、保存、展示を行っている。
 しかしこの芸術というものがどういうものであるか、また、どういうものでないか、という部分に関しては、様々な評論家や芸術家自身によって明瞭確乎とした定義を求めようという試みはあったものの、明確な芸術を芸術足らしめる要素というものは、言語化し切れていない部分がある。
 特に古典以降、より自由なものとして発展してきた芸術は、絵画におけるキャンバスと油絵の具、彫刻における大理石や木、身体表現における場にいたるまで、従来のメディウム(媒体)にとらわれない表現手法を確立していった。ミニマリズムがポストミニマリズムに、ポストミニマリズムがインスタレーションアートに、と文脈を踏襲してつながっているように、それらの作品群は、それまでの作品のアンチテーゼであったり、その時代時代に対する表現手法として、様々な形を取ってきた。ここに至って、芸術というものはどのようなものであるか、という定義が、明瞭確乎としたものである、ということはどのような論法をもって言うべきであろうか。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、このようなセンセーショナルで強い言質は、あくまでもその個人の想いによるところが強いように思われる。

 その中でもメディアアートというジャンルにおいて馬定延が著書「日本メディアアート史」において行った「国内外を問わず、言葉の射程が定まっていないなか、本書では「メディアアート」を作家と作品と観客を取り囲む環境としてのテクノロジーの発達に伴う社会現象として、またそれに対するアーティストの取り組み方の問題として定義してみたい」 という定義は、既存の芸術史における芸術の独自性、という観点をあえて排し、社会との関係性という点にクローズして語るという具体性において、従来の芸術の定義と違い、非常に柔軟性のある定義であるように思う。それはボイスの提言した社会彫刻という概念に連なる発想であるとも考えることが出来るだろう。芸術作品はその芸術作品が独自に芸術性を担保する訳ではなく、その場と環境との関係において芸術性を担保するのである。

・サイトスペシフィックな芸術
 サイトスペシフィックというのは芸術と場所、つまり作品とそれがおかれる空間というものは不可分である、という考え方である。この考え方は、美術館のように展示ごとにその配置が変わる、また、作品の設置に作家の完璧な意図の介入を許さない制度に対する反発でもあり、ホワイトキューブのような白い隔離された展示空間や美術館という既存の場所性への批判でもある。 
 キャロル・ダンカンは芸術を美術館の機能と共に記述している、「美術館というリミナルな空間では,あらゆるもの—ときにはどんなものでも—がアートになりうる」と。現実という空間から隔離され、一種のメタ的な視点でもって様々な事象を問い直す、その芸術の性質はこの美術館のもつ、再考する場という機能によって担保されてきた部分が少なからずある筈である。これは古くはデュシャンの泉のような、美術館という機能と権威に裏打ちされた作品の存在からも窺い知ることが出来る。

参考文献
馬定延、「日本メディアアート史」、アルテスパブリッシング、2014
キャロル・ダンカン、「美術館という幻想 儀礼と権力」、水声社、2011