2016年5月13日金曜日

「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス」について

この映画はなんというか、本当に、いろいろなことがうまくいってない映画だと思う。
他の人はどう思っているのだろうと思い、ネットでレビューやら考察を掲載しているwebサイトを覗いてみると、出るわ出るわ、低評価のオンパレードである。
ただ、ちょくちょく見かける感想として、宇宙人のキャラクターが不快である、というものがあるが、この点に関しては、そのように作ってあるのだから、それはそうだろう、と思うし、そこを低評価の基準にするのは過ちであるのではないか、と思う次第である。

この映画に出てくる宇宙人たちは、地球人とは違う環境で育ち、違う価値観の元に生きてきた、地球人とは違う常識を持った人たちとして描かれている。

この点はこの映画をむしろ評価する点であると思う。
社会的な停滞感や、閉塞感、その状況の原因となる問題を「ヒママターの不足」という分かりやすいものとして設定し、違う価値観を持つ宇宙人と地球人が同様の問題意識を共有している、という出発点がある。ただ、その問題を解決するための方法が、価値観の違いゆえに異なる、という非常に難しいテーマを描こうとしているのではないか。
ぶっちゃけ全然子供向けなテーマではない。この映画には明確に悪意を持った敵が存在しないし、仮に宇宙人側の代表、サンデーゴロネスキーを完膚なきまでにやっつけたとしても、物語に設定された問題は解決しないのである。
この映画の鑑賞後の清涼感のなさは結局のところ、設定された問題に完璧な回答というものが存在しえないし、絶対的に正しいと言える選択も存在しないことに起因しているように思う。二つの価値観のすれ違いというテーマは、結局のところ無理やり一つの解法にたどり着かせようとすると、一方の力による屈服か、ご都合主義に流されがちなのだ。
こういうテーマをしっかり描いた作品として、例えば漫画版ナウシカがある。序盤ナウシカとクシャナはお互いの正義のためにすれ違い、終盤では古代文明の意思とも言える墓所の主の主張する論理的正しさと、ナウシカの主張する直感的正しさのぶつかり合いとなる。『風の谷のナウシカ』は異なる価値観を持つ人々と融和してきたナウシカが、最後に絶対に相容れない異なる価値観の正義を打ち倒す葛藤を描いているとも言えるだろう。こういう作品の場合、読者、視聴者の感情移入する側の主張は、だいたい「私たち人間の可能性に賭けましょう」という話になりがちである。『ドラえもん のび太と雲の王国』もそうだったし、本作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』の野原一家の主張もそうである。
そして何より本作のやばいところは、子供向けアニメの設定する問題提起としては難易度の高すぎる「子供は親に育てられることが最も幸せであるか?」という家族のあり方そのものの根幹に対する問いを設定してしまっていることである
クレヨンしんちゃんの映画はだいたい毎回興行収入10億前後の大人気映画である。そしてこの映画を観る層には、かなりの数の子供と親子連れがいるはずである。
家族のあり方や、社会の構造、親と子供の関係性が多様化している現代社会に対して、この問いかけは正直言ってナンセンスすぎるのだ。
一つの解答を示すことは、裏返せばその形ではない家庭を暗に批判することにもなりかねないし、幾つかのクレしん映画を見てきた人ならば感じるのではないかと思うが、クレヨンしんちゃんという作品における「家族」とはイコール「野原一家」のことなのである。だいたいどの作品でも、カスカベ防衛隊を助けに来るのはしんのすけの家族であるひろし、みさえ、ひまわりであり他の子供達の家族は往々にしてモブのような扱いとなってしまっていることが多い。だからこそ、クレヨンしんちゃんは、これがあるべき家族の形である、という主張の強い作品を避けてきたのではないか、と思う。そもそも映画の中ですら子供に対する行動力や情熱、という点で野原一家とカスカベ防衛隊のみんなの親に大きな格差が生じてしまっているのだ。(無論ストーリー上何人も親を活躍させることが、分かりやすさや尺の都合で不可能であるという考えがあるのだろうが)
子供から見たクレしんは、しんちゃんに感情移入して見るものであるので、自分の親であるひろしとみさえ、妹であるひまわりが一番活躍するというのはよく分かる。子供の目線で考えれば、友達の親、というものは正直あまり視界に入らないものであるので、この描き方も納得のいくものがある。大人の目から見たクレしんは、ひろしやみさえを通して、俺、私にもこういうところあるよね、というような部分部分の感情移入を促しているように思える。家族、というテーマを扱っているからこそ、今までのクレしんの映画は、家族というものそのものを根源的に問うテーマを避けてきたのではないかと思う。
ある意味で本作は、今までのクレしんとは大きく異なる路線を目指した冒険作であるとも言える。本来だったら敵に当たるキャラクターたちは明確に敵意を持っているわけではなく、問われるのは家族としての野原一家のあり方である。(これは同じ監督が監督する前作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦』でも似たようなスタンスを取っていることから、この監督が人気作であるクレヨンしんちゃんの映画を作る上で示すべきと考えた一つの方向性なのかもしれない。)国民的アニメ、という言葉があるが、その国民の生活が時代の移り変わりによって変化していく中で「お前たちは国民的アニメのキャラクターとして本当にそのままでいいのか?」と問うているようにも感じられる。そして、やはりテーマに対して明確な解答を示さない。野原一家はその問題提起を解決することもなく、また、向こうの意見に対し反論する意見を示すでもなく、各人の気合いとがむしゃらさと、なんとなく序盤に出てきた伏線とも言えないような予言と整合性をつける、というご都合主義で幕を引く。異なる価値観をすり合わせるのはある意味で大人の仕事であると言えるだろう。ひろしとみさえは結局、既存の自分たちの持ってる価値観を曲げることもなく、まあなんとなく今まで通りに戻れるしよしにするか、という感じで春日部に帰っていく。彼らは結局のところ、相手の正しさをがむしゃらさというパワーで自分たちの正しさのもとにねじ伏せただけである。
ある意味でこの作品は群像劇なのだ。目指すべき目的のために一致団結して問題を解決するのではない。各人がいろいろがむしゃらにやってたら、なんとなく問題が解決してしまった。という腑に落ちなさがこの作品の弱点とも言えるだろう。しかし、アニメの世界や子供の世界は努力、友情、勝利、みたいなシンプルな方程式が成り立つのかもしれないけど、大人の社会から見えている世界って実際にこんなもんなんじゃないか、とも思う。


やたらと大人と子供、という話をしているが、この作品は子供がいつか大人になる、ということを明示的に示した作品でもある、この路線を示したクレしん映画といえば「未来の花嫁」もあるが、あれは具体的に大人のしんのすけをしんのすけとは別のキャラクターとして登場させてしまっているので、少し方向性が違うだろう。この作品の該当部分は、まさに映画の最後で、ゴロネスキーがしんのすけに、大人になった時にお詫びに贈り物をしようという提案をし、しんのすけが「え〜そんな先?」と言うシーンである。この時のゴロネスキーの返答はこうだ。「そうかな?意外とすぐだぞ?」。

僕はこの描写に、親世代が理解できず許容できなかった価値観のすれ違いに、いずれ大人になったしんのすけが向き合うことになる、という暗示が込められているように思う。
その時にしんのすけは一体どんな答えを出すのだろうか。

というわけで、この作品はとても示唆的で、実験的で、今までのクレしん映画にとらわれない凄い作品であると、私は思っている。


ただ、やっぱり、なんというか、一言で言ってしまうと、つまらないのである。

それはこの作品だけで話が結局解決していない、という物語的な欠陥のせいでもあるし、問題提起に対してとりあえずでも回答を示すわけでもなく、野原一家も今回の騒動で、変わったり成長した点がたいしてないからということにも起因するのだろうが…
そして何より端的この作品は、映画を娯楽としてなんとなく楽しめない作品であるということが大きいのだろう。小難しいことを言いつつも、やはり私も映画に享楽的な、享受しやすい快楽を求めてしまっているのだなぁ、と思ってしまう次第である。