2017年6月11日日曜日

今更シュタインズゲートの良さについて話す

今更ながらこれを見て、俺、33の未来の岡部倫太郎の方が年齢的に近いじゃん、と大変驚いた。
「涼宮ハルヒの憂鬱」を見てた頃は高校生だったわけで、時の流れは残酷であるなぁ、などと思うわけである。
この作品が大変面白いのは、これだけハードSFな雰囲気を出しておきながら、割と本筋はしっかりとギャルゲー、つまり恋愛シミュレーションの王道を外していないことである。ある意味ではその辺の演出はTYPEMOONの作品よりも顕著と言えるだろう。
初見は「魔法少女まどか☆マギカ」よりも後だったのだが、タイムリープものの面白さ、というのは、やはり「時をかける少女」以来変わらないのだなあ、と実感するばかりである。
無論、「魔法少女まどか☆マギカ」の素晴らしいところは、タイムリープ要素を簡潔にまとめたこと、そして何よりも、運命の糸に惑わされ、もがきながらも因果の糸に囚われていく対象を少女という、現代においてはより感情移入しやすい対象に落とし込んだこと。そして何より、あの物語は紆余曲折あれど、最終的には運命などという大きな意志によるものではなく、まどかとほむらという等身大の少女同士のすれ違いと永久に解決しないエゴのぶつかり合いに収束させているところが非常に上手いのであるが。

さておき、シュタインズゲートは、大変よくできたアニメである。
何がすごいって、導入がすごい。ぶっちゃけ全24話中、12話に到るまでが導入なのだ。
実にまどマギの4倍である、ここでじっくりと各々のキャラクターの人間模様を描き、それぞれの思いや葛藤、そして岡部らの発明した過去にメールを送ることができる装置によって過去改変を行い、そうであって欲しかった『現在』を実現させていくことになる。やがてその行為によって生み出された歪みが臨界点を超え、12話でまゆりの死という結末が訪れることによって、それを回避するために岡部倫太郎が『現在』を本来の形まで戻していく。これが大変よくできた構成になっている。12話時点で設定された目標は、これまでの12話をなかったことにする、というゼロサムゲームなのだ。かといって、荒木飛呂彦がいうような、主役は常に勝ち続けなければいけない、という少年漫画における法則を無視しているわけではなく、回を重ねるごとに、ラボメン同士の繋がりは断ち切られていくが、それは岡部倫太郎という主人公の記憶によって紡がれ続けているのである。この辺りで着目すべきは、ここに本来存在するはずであろう喪失感を、恋愛シミュレーションにおけるお約束によってうまく緩和している、という点だ。
ハードなSFの世界観で24話アニメーションを続ける、というのは結構至難の技である。
小説と違って、アニメでは1話ごとに見せ場を用意し、常に観客をつなぎとめておく必要がある。シュタインズゲートが大変よくできている、と思う点は、まさにここである。物語が展開するごとに、様々なキャラクターたちの内面や、主人公に対する好意、あるいはそのキャラクターに隠された秘密が開示されていくことになる。これが主人公が確実に目標に向かって前進している、という実感を与え、視聴者にプラスの気持ちを与えているのである。毎回まゆり死んでるのに。
「涼宮ハルヒの憂鬱」でも同様の問題が起きるのであるが、災禍の中心にいる人物は、物語的にはハブられがちになる。「涼宮ハルヒの憂鬱」でハルヒが全然出てこないのと同じく、まゆりというキャラクターが何を考えているのか、という点は実はアニメ本編であんまり描写されていない。これはまどかマギカでも同じで、まどかが何を考え、どのように行動するのか、という点は、実はあんまりちゃんと描写されていない。
シュタインズゲートにおいては、まゆりは毎回死ぬからあんまりちゃんと内面描写しちゃうとキツいというのもある。
例えばまどマギにおいては最終的に物語は暁美ほむらという非常に視野が狭い主人公の視点で描かれている。それが故に『最高の友達』でありながらも、究極的に言ってしまえば『他人』という存在であるまどかの内面描写が避けられているのではないか、と考えられる。というか多分まどマギでほむらの次に内面描写が多いのはさやかだし。その描写不足が故に、他人のためなら死すら厭わない自爆テロリスト気質を持った女の子みたいになってしまってるのは大変遺憾なところであるが、ぶっちゃけてしまえば、そっちはそっちで一本別のアニメが作れるだろう、という感じはする。
まどかマギカという物語は、ほむらが理解できない相手を『愛』してしまったこと、そしてそのお互いの一方通行の愛は、お互いのエゴによって、どちらかがどちらかを隷属させない限り永久に解決しないという人間関係の物語、正しい回答、シュタインズゲートの存在しない世界を描き切ったところにある。
一転シュタインズゲートは、まゆりが死ぬか紅莉栖が死ぬか、という二択の選択は迫られるものの、まどマギと違って、みんなが望む未来はシュタインズゲートに収束されている。という点で大きく異なる。更に言えば、リーディングシュタイナーという時間軸の変化を認識する能力が、極限的に言えば主人公にしか備わっていないため、何度まゆりが死のうが最終的にハッピーエンドの時間軸に行ければよし、という構成になっている。そういう意味では、綺麗に終わる。まどかマギカでは、まどかという舞台装置によって全ての時間軸が認知されてしまったが故に、ほむらの行動はいっぺんもなかったことにできず、その認知を踏まえての“許し”によってほむらは救済されるわけであるが、その救済が不完全であったが故に、劇場版叛逆の物語へと物語が続いていくのである。
アニメ版シュタインズゲートの良さは、結局のところ、岡部一人の選択によって全てを解決できた、というところに尽きる。アニメ版の暁美ほむらは、舞台装置によってオートマチックに救済されてしまったのだから。